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人も桜のように咲くときに咲けたらいい

さむいさむいとぼやいていたら、世の中は知らぬ間に春になっていた。

道を歩けばそこらじゅうから花の香りがするし、つかの間の休息を取っていた虫たちものそのそと活動をはじめている。

私はというと、とくに冬と変わらず過ごしていた。毎朝憂鬱な気持ちで目覚めては仕事へ行き、少しずつ順調になってきている業務をこなし、帰ったらゲームをするか本を読む。

自然界では冬と春とでうまく生活に緩急をつけてやっているというのに、なぜ人間は一定の生活を送らなければならないのだろう。人間だって冬は眠いのにあくせく働かなきゃいけないし、春は心機一転生活を変えようと思っても結局仕事にずるずるエネルギーを吸い取られて何にもチャレンジできずに終わる。人間というのは、案外不器用なのかもしれない。

東京では八重桜がすっかり散ってしまった。つい最近まで満開に咲き誇っていたというのに、今となっては見る影もない。一年のうち数週間しか咲かないのだから、人間で例えたらどうしようもないニート野郎である。

しかし、それでも八重桜の美しさは変わらない。というかたった数週間しか咲かないからこそ価値が認識されやすいし、記憶に残りやすい。ドライフラワーと違っていつまでも愛でられるわけではないから、いつまでも愛でていたいと思わせる。

桜というのは、そのはかない稀有な美しさで何百年も前から人々に愛されてきた。

私はどうなんだろう、と考える。自分の見頃っていつなんだろう。春か夏か、あるいは秋か冬か。いつになったら私は花を咲かせ、周囲を魅了することができるのだろう。

これまでの人生をさかのぼっても、自分が”満開”だった時期がどうしても見当たらない。五分咲きがせいぜいだ。強いて言うなら、頭を空っぽにして走り回っていた小学生時代は満開に近かったのかもしれない。もちろん、子供なりにいろいろ悩んではいたけれど。

大人になるにつれ、自分の感情や行動をコントロールするのがうまくなってきた。はしゃぎすぎると後半バテてしまうし、走り出しが遅すぎると取り戻すのが大変だから、一定の速さで走ることを覚えた。1月1日から12月31日までなるべく同じような生活を送る。そんなペース配分で走るようになった。

そのことでたしかに得られたメリットもある。貯金ができるようになったとか、ちゃんと睡眠をとるようになったとか。でも、生活全体に漠々とした倦怠感が漂ってしまうのはなぜだろうか。

家の近くの公園で咲いていた八重桜が散っているのを見たとき、なんとなくその理由がわかった。

私は一定のペースで走ることで逆に焦っていたのだ。こんなことではいけない、もっとより良くなれるはずだ。そう思って常に自分の成長を考えるようになっていた。

しかし、思うように人は成長していかない。だから焦る。でも生活は一定のペースで走らなければならない。そんな自己矛盾の中で神経をすり減らしてきていたから、生活の中に重たい雲のようなものがどんよりとたまっていたのかもしれない。

人も桜のように咲くときに咲けたらいいじゃないか。1年のうちにたった一度だけでも花を咲かせることができるならば、そのほかの期間はゼロだっていい。たった一度でも花を咲かせれば、あとから振り返ったときに”何もなかった一年”にはならないはずだ。

毎日なにかを生み出したり、成長したりしなければならないという考えは一旦土の中に埋め、ひとまず深呼吸して”何も生まない”ことにも意味はあるのだと思うことにしよう。

叶えられそうにない背伸びした目標よりも、地に足をつけてただ生活を営むことに集中しよう。そうすれば、土の中に埋めた種はいつしか芽を出して花を咲かせるかもしれない。大丈夫。1年のうち一回だけでいい。むしろ、本当は一生のうち一回だけでもいいのかもしれない。

来たるべきその日のために、今日は存分に休むこととしよう。

大事なお金は自分のために使ってあげてください。私はいりません。