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終電で帰宅中、ありえないものを見た。

※この記事は【ちょっと一息物語】というコンセプトの創作です。その名の通りコーヒータイムや仕事の合間、眠る前のちょっとした時間に読んでいただけるような短い物語として書きました。今夜は、くたびれたサラリーマンが終電を乗り過ごそうとするところから始まる物語です。それでは、ゆるりとお楽しみください。

重い足取りで改札をくぐり、いつもの自販機で缶コーヒーを買う。現在、時刻は0時15分。あと10分ほどで終電がやってくる。周囲に人影はない。いつものことだ。もともと利用客の少ないこの駅は、夕方の通勤ラッシュを過ぎるとほとんど電車に乗る人はいない。


人がまったくいない駅はどうしてこんなにも寒々しいのか。私は缶コーヒーで手を温めながら待合の座席に座った。一つため息をついて目を閉じる。途端に偉そうに説教を垂れる上司の顔が脳裏に浮かぶ。私は必死にその残像を振り払い、缶コーヒーを開けて一口飲んだ。


どうしてこんな人生になってしまったのか。毎日毎日残業で遅い時間に帰宅し、そして始発の電車で会社へ向かう。週に一度の休日は家事と睡眠でほとんど潰れてしまう。食事はコンビニ弁当が当たり前で、たまの贅沢といえばスーパーで値切りされているマグロの刺身を買うことぐらいだ。こんな生活をしていると体を壊しそうなもんだが、実際半年ほど前から時折心臓の痛みを感じるようになった。とはいえ、病院へ行くお金も時間もないから放置するほかないが。


「うっ」


私は胸を抑え、缶コーヒーを強く握りしめる。また心臓の発作が来たのだ。大丈夫、大丈夫。自分にそう言い聞かせる。いつも10秒ほどで収まる。今回もそうだ。何度か深呼吸をしていると、やはり痛みは引いていった。額に流れる冷や汗をぬぐい、まだ温かい缶コーヒーを一口飲む。


今日はとりわけ疲れることが多い一日だった。家についたら食事もとらずに眠りにつくことだろう。電車の時間まではあと5分ほどある。少し目を休めていよう。そして私は、いつの間にか眠りについた。


「・・・行き、・・・行き」


私ははっと目を覚まし、慌てて立ち上がった。知らぬ間に寝ていた。この終電を逃すわけにはいかない。鞄を手に取り、電車へと急いだ。電車の扉は私が中に体を入れるのと同時にしまった。私は胸をなでおろした。


電車の中はやはり無人だった。おそらく別の車両に客は乗っているのだろうが、私が今乗っている車両には誰もいない。いつものことだ。私は誰もいない電車が好きだった。どこに座っても自分の自由。まるで車両をまるごと貸し切ったみたいだ。普段は会社の中で肩身の狭い思いをしていることもあり、心地よい解放感を味わうことができた。


私は座席の真ん中に座り、発車した電車の動きに揺られながら窓の外をぼんやりと眺めた。いうまでもなく、外はまっくらだ。家に帰る電車の中で明るかったことなんてほとんどない。とくに今の会社に入ってからは全くだ。もう少しましな労働環境の会社に転職したいとは思うが、この年齢で受け入れてくれる会社なんてどこにもないだろう。私は死ぬまで下働きをして人生を送る役割の人間なのだ。


電車の心地よい揺れに身を任せながら、ぼんやりと窓の外を眺める。見慣れた夜景が流れていく。こんな時間にも働いている人はいるのだと、少しだけ安心する。だんだんと瞼が重くなってくる。家まではまだまだ時間がかかる。少しだけ眠ろう。そうして私は再び眠りについた。


どのくらい時間が経っただろうか。私は電車の強い振動で目を覚ました。何事かと周囲を見渡したが、とくに異変は見当たらない。電車も走行をやめてはいない。車掌のアナウンスもないから、とくになんの異常も持ち上がってはいないのだろう。ふと窓の外に目をやると、そこには存在しないはずのもの目に入った。そんなはずはない。思わず窓にかけより、外をじっと見つめる。いや、間違いない。あれは、あれは、あの家だ。なんでこんなところにあるんだ? 呼吸が速くなり、動悸がする。「パパ! このお洋服可愛いでしょ」頭の中で声がする。もう一度外を見る、その家はほかの街並みと一緒に視界の外に流れていってしまった。


私はしばらく放心状態だったが、ぐったりと席に座り込んだ。手が小刻みに震えている。そのとき、私の手を温かい何かが包み込んだ。それは人の手だった。私は驚いて横を見る。そこには私の妻が座っていた。妻は優しく微笑んでいる。


「なんで君がここに、君たちはあの日」


妻は私の口に指を立て言葉を遮った。そして私に後ろを振り向くように目配せをした。私はその通りにする。そこには、座席で横になって寝ている娘の姿があった。いつの間にか私の膝に頭をのせている。娘のやわらかで小さな呼吸の鼓動が伝わってくる。懐かしい。私にもこんな幸せがあったのだな。気づけば、頬に涙が伝っていた。


「ねえあなた」


妻の優しい声は相変わらずだ。


「私たちのこと、恨んでない?」


「なんで?そんなこと、あるわけないじゃないか」


「だって、あなたをひとりぼっちにしてしまったでしょ。私たち、それが気になっていたの」


「いや、いや、君たちが悪いわけじゃないだろ? だって、あれは事故だった。君たちが焼けてしまったのは・・・」


妻は再び私の口に指をあてて言葉を遮った。娘は相変わらず静かに寝息を立てている。幸せそうな表情だった。


「そう、それならいいの。それが聞けたら十分」


そう言って妻は立ち上がった。


「今の生活はどう?幸せに暮らせてる?」


「うん、それなりにやってるよ」


私は自分の今のみじめな生活を正直に伝えようと思ったが、妻を心配させないよう嘘をついた。妻は私の目をじっと見つめていた。昔から妻は私の嘘を見抜くのが上手だった。


「あなたはまだ、私たちと一緒にいてはダメよ。しっかりしなきゃ」


妻は私の胸元に手をやり、よれたネクタイを直した。いやだ、妻と娘と一緒に過ごしたい。そう強く思った。


「君たちと一緒にいさせてくれ。もう、もう疲れたんだ」


「ダメよ。わかって。これは娘のためでもあるのよ」


妻はそう言って眠っている娘を抱きかかえた。電車がどこかの駅で停車した。扉が開き、妻は私に手を振って外へ出て行った。私は当然追いかけようとしたが、なぜか座席から立ち上がることができない。まるで足の神経が死んでしまったかのように動かなかった。


「まって! まってくれ!」


妻は優しい微笑みを私に向けながら、閉じられる扉ごしに私に手を振っている。私はどうにか妻のもとへ駆け寄ろうともがくが体が全くいうことをきかない。電車が再び発車する。妻と娘がどんどん小さくなっていく。そこで私の意識は途絶えた。


その後、私は病院のベッドで目を覚ました。医者の話しによれば、駅のホームで倒れていたのだという。心筋梗塞だろうとのことだった。私はあの電車の中での出来事を想った。あれは、夢だったのだろうか。それとも・・・・。


病室の窓の外を眺める。そこには雲一つない空が広がっていた。

あの日、本当なら私は…

病室の隅に置かれた自分のかばんを見る。中にはロープが入っているはずだ。妻はまだ生きろと言ってくれた。あとほんの少しだけ、頑張ることにしよう。

とりあえず仕事をやめよう。お金だのキャリアだのの悩みは後から考えればいい。今は前を向くべきなのだ。いつか家族と一緒になれる、その日まで。

大事なお金は自分のために使ってあげてください。私はいりません。