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『粉雪と煙草』

 ※BL小説


あの人が来ないのは、最初から分かってた。
期待なんかしてなかった。
分かってたから、別に哀しくない。

哀しくなんか、ない。

*****


俺が初めてあの人に会ったのは、秋の日の、夜の街角だった。
俺は、駅に続く空中デッキのベンチに、もう何時間も座っていた。
親にも友達にも、ましてや先生になんか言えない苦しみで、
ねじ切れてしまいそうな体を抱えて。
どこにも行き場がなかった秋の日の俺は、
きっと捨て犬みたいな目をしていたに違いない。

目の前に立った人の背広から、煙草の香りがしていた。
大人の男の匂いだ、と思った。
「随分前からここにいるけど、どうしたの」
って尋ねられて、俺は、
「親友に、ゲイだってばれた。キモいって言われた」
って答えた。

正直に答えたのは、
二度と会わないような奴に嘘をつく意味はないと思ったから。
分かったらさっさとあっちに行けよ。
そんな気持ちを視線に込めた。

最初からガラスの積み木のようだった、俺の高校生活は、
ほんの一つを積み損ねたばかりに、木っ端微塵に砕け散った。
仲間だと思っていたものが、突然全て敵に変わる、
世界が一時に毒々しい色に塗り替えられていく恐ろしさが、
大人に分かるはずなんてない。

明日から、どうしよう。
どうしたら、いいんだろう。

その人は、
「辛かったね」
って言った。
やけにこちらの胸に染みこんでくるような口調で。
「あんたに何が分かんの?」
「私も君と同じなんだ」
そう言って微笑んだあの人の、目尻に浮かんだ笑い皺が優しかった。

この人も、俺と同じ?
初めて見る、同類。
男に恋をする男。
男に欲情する男。
この人の前では、隠さなくてもいいんだと思ったら、
粉微塵になった心から思わずこぼれた言葉は、
自分でも信じられないようなものだった。
「じゃあさ、俺と寝ない?」

「そういうつもりで声をかけたわけではなかったんだ」
落ち着いた声で、あの人は言った。
その少しも動揺していない様子が、無性に俺の神経を逆撫でする。
ゲイだという男を少しも揺さぶることができない自分が、酷く惨めに思えた。
「綺麗事言って、勇気がねえだけだろ? それとも俺じゃ勃たねえ?
そんじゃ、さっさと目の前から消えろよ。
説教聞きたい気分じゃねえんだよ。
あんたがいなけりゃ、別の男が拾えるかも知れねえだろ」

もうどうでもいい。どうなってもいい。
俺は今夜、一人になりたくない。
誰でもいいから、俺を拾って。
粉々になってしまった、俺を拾って。

夜が更けてゆく。それでも、俺は帰れない。

また目の前に誰かが立った。
煙草の匂いで、顔を上げる前からあの人だと分かる。
あの人は、とても澄んだ目をしていた。
「いくつ」
って尋ねられて、俺は、
「はたち」
って嘘をついた。

嘘をついたのは、あの人に閉め出されたくなかったから。
間違った理由でもいい、今夜、ひとりぼっちになりたくなかったから。

あの人の部屋で、生まれて初めて人の肌の温かさを知った。
「初めてだったんだね」
驚くほど近い場所に、今日出会ったばかりの男の顔がある。
それなのに、それが少しも怖くはなくて、ただ安らかだった。
小さな子供に返ったような甘やかさと心細さが、ゾッとするほど心地いい。
だから俺は、絶対に人前でしないと決めていたことをした。

俺は、泣き疲れるまで泣いた。


翌日、俺は学校に行った。
初めて知った人肌が、あの人が教えてくれたアドレスが、怖じ気づく俺の背中を押した。
崩壊した世界の中で、たとえどんな心ない言葉が俺を傷つけても、
たったひとりあの人だけが、まがい物でない俺自身を否定しないのであれば、
生きていけると思ったから。

二十歳と言ってしまったから、あの人の前でも俺はありのままってわけじゃない。
学校のことは話せない。
学校と家しか世界のない俺には、話すことはほとんどなかった。

だから、あの人と会うと、俺は抱き合うことばかり求めた。
身体を繋ぐたびに、悦びが深くなる。
最初はあの人を繋ぎ止める手段だったものに、
俺の方が深く溺れていくのに、そう時間はかからなかった。


冬の始めに、担任の教師が産休に入り、代わりの教師がやって来た。


あの人だった。


俺を見たときのあの人の目、
一瞬の驚愕と、そして鮮やかなまでの無視、
俺は自分が透明人間にでもなってしまったかのように感じた。


それから何度メールしても、返事は同じ。
『もう私達は会うべきではない。お互いに忘れよう。
君のことは生徒として、大切に思っている』


*****


あの人と秋の日に出会った駅へと続くデッキで、
これが最後のつもりでメールを入れた。
来ないことは分かってた。
あの人が来ないのは、最初から分かってた。
期待なんかしてなかった。


息が白い。
今夜はクリスマスイブ。
クリスマスツリーにイルミネーション、
みんなが誰か自分を待つ人の元へ急いでる。

哀しくはない。
あの人は、一度も好きだなんて言わなかったし、俺だって言わなかった。
何度も抱き合っただけ。
そして秋が過ぎてしまっただけ。
二度とは巡って来ない季節が、もう終わってしまったというだけ。

発光ダイオードのブルーの光に照らされた冷たい小さな結晶が、
妖精じみた動きでとめどなく舞い降りてくる。

ああ、こんな夜なら、簡単に消えてしまえるような気がする。


煙草の香りが、俺の視線を掬い上げた。

「来ようか来るまいか、迷ったんだ。
お互いのために、来るべきでないのは分かっていた」
あの人の目は、あの日と同じように澄んでいた。
俺は自分がもうどんな顔をしているか、見当もつかない。
「世間から見れば、私は教師失格だろう。
それでも、例え全てを失うとしても、
世界中が後ろ指を指したとしても、
ここに来たことを、後悔はしない」

街を瞬かせているものは、粉々に散乱する硝子だろうか。
煌めく廃墟の中で手を取り合う俺達を、世界は糾弾するだろうか。

ただ俺に今分かるのは、
この煙草の香りのする胸だけが、
俺を生かすということだけ。

この人の胸の中でだけ、
俺は自分にも熱い血が流れていることを思い出す。

あの人が屈み込み、粉雪のような冷たい口付けをして、
俺の止まり掛けた世界のネジを巻いた。


<了>

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