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『蝉の唄 5』

※BL小説


 聡の表情が少しだけ歪んだ。
「もう、お前が嫌がるようなことはしないよ。俺だって、順番がめちゃくちゃだったことは分かってる。あれから何度も後悔したよ。ごめんな、和希」
 僕と聡の子供らしい時代はとうに終わっていたのだとしても、あのことさえなかったら、普通の従兄弟同士でいられたはずだ。子供時代の輝かしい思い出が幾つも胸に迫ってきて、僕の心をかき乱す。
 聡が謝ってくれても、あのことをなかったことにはできない。
「謝るぐらいなら、何であんなことしたんだよ……!」
 好きな人に後悔したと言われて、今僕の胸はこんなにも痛い。
「僕に触るな。ここにも来るな。用なんてないだろ!」
「一度俺の気持ちをちゃんと言っておきたかったんだ。これだけ言ったら帰る」
 何を言おうというのだろう?
 一年だ。あれから一年。何かを言ってくれるつもりがあれば、幾らだって伝える方法があったはずだ。それとも中途で終わった去年の行為を最後までする気で来たのか。少し優しくするだけで僕だったら言うことを聞くと、そう思われているのか。
 蝉の声がうるさくてたまらない。耳の穴から脳みそまでが焼け焦げてしまいそうだ。耳を覆って布団を被って、一人でうずくまっていたかった。
「聞きたくないよ。もう帰って」
 僕は年に一回だけ気まぐれに遊ぶ玩具じゃない。もう、やめて。僕をそっとしておいて。

 だが、聡はこう言った。
「和希、お前のことが好きなんだ。もう何年も前から、ずっとお前が好きだった」
 聡の言葉は、僕が待ち望んでいた魔法の言葉によく似ていた。ドミノの盤面を黒から一気に白へと覆すためのマジックワードに。
 だけど僕の想像上の聡が優しい表情を浮かべて甘い口調で囁いていたのに対し、目の前の聡はむしろ怖いような顔で、酷く早口だった。
 現実感がなかった。僕は聡のことを思いながら泣きながら眠ってしまって、自分に都合のいい夢を見ているんだろうか?
「こんなこと言ってごめん。従兄同士だし、何より男同士だ。できればこんな気持ち、消してしまいたかった。できることなら俺だって、いつまでもお前が懐いてくれている俺で居続けたかった。でも、お前しか好きになれないし、何をどうしたってお前が消えてくれないんだ」
 聡の額が酷く汗ばみ、瞳には激しい焦燥が浮かんでいた。
「あの日だって、どうしても顔が見たくて、顔を見て少し話したら帰るつもりだった。なのに、暗い部屋の中でベッドに並んで腰掛けて、明日になったらもう離ればなれなんだと考えていたら、お前が欲しくて欲しくて欲しくて、頭の中で何かが切れた」
 夢想していたよりずっと切なく苦しい表情で告げられた、生まれて初めてもらった告白の言葉。
 冗談や誘惑のための言葉ではないと、突然悟った。
 どんと胸を衝かれるような衝撃が来て、緊張で心臓がきゅっと縮んだ。
 あんなにも喧しかった世界が、無音になる。

「泣かせてしまって、ごめん。お前の思うとおりの従兄でいられなくてごめん。来年から、もう俺はここには来ないよ」
 こうであったらどんなにいいかと願っていた通りの言葉を告げた従兄は、想像とは全く違う結論を既に用意してしまっているようだった。
 好きな人に好きだと告げられたら、そこから子供時代の冒険に変わる何か素晴らしいことが始まるのだと思っていた。それなのに、聡は全てを終わらせようとしている。
「……さよなら、和希」
 さよならなんて嫌だ。
 また、僕を取り残して行ってしまおうとしている。しかも、もう二度と会わないつもりでいるんだ。
「ひどいよ、聡ちゃん……!」
 自分の言いたいことだけ言って。
 僕は何を考えるより先に、聡のタンクトップの裾を握りしめていた。
「許してもらえるとは思ってないよ。自分が最低だって知ってる。嫌いでいいから、離してくれ」
「嫌だ!」
「頼む、和希。俺も限界なんだ」
 聡が顔を背けた。それでも、僕はタンクトップの裾をつかんだままでいた。これを離してしまったら、聡との縁が切れてしまう。
 ふいに聡がタンクトップの裾をつかんで持ち上げた。素早く腕と頭を抜いてしまうと、中身を失った抜け殻みたいなタンクトップが僕の手の中に残る。
 聡が窓枠に手足を掛けた。
 去年のあの日と同じように肩を落とした姿が、出ていこうとしている。違うのは窓の外に見える空の色だけだった。抜け殻になった服と、二人の間にある可能性ごと、僕は置き去られようとしていた。

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