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『蝉の唄 2』

※BL小説


 翌日以降も、僕らの距離が縮まることはなかった。
 聡はもう、僕と野山で遊ぶことはしなかった。二年前までの聡なら、ふとした時に首を抱き寄せてきたり肩を組んできたりしたものだったが、そうした独特の親しさの表現もない。
 妹を連れて聡と三人で地元の夏祭りに行ったり、隣町までバスに乗って図書館やプールに行ったりはした。だが、二人の間にあった親密なものは、既に失われてしまったようだった。
 聡が何を考えているのか知りたくて、僕は何度も従兄の顔を盗み見た。けれど、聡は以前のように頻繁に視線を合わせてくれることもなくて、その夏、僕は一人項垂れてばかりいたような気がする。
 一度だけ、聡と視線が合ったことがある。
 その日僕は、本を読んでいる聡の向かいに座って、受験勉強用の問題集を解いていた。数学の得意な聡に教えて貰えと両親も祖父母も言ったけれど、僕は気後れをして解けない問題を尋ねることができなかった。
 僕は聡のことが大好きだったから、二人の間に何か僕には分からないものが挟まってしまったことが、辛くて苦しくてならなかった。問題集の上を辿る視線が何度も滑る。
 高校に上がった聡にとっては、田舎の中学生に過ぎない僕は、きっと色褪せて魅力のないものに思えたのだろう。苦しい堂々巡りの果てに出した結論はそれだった。
 じくじくした痛みが言葉となって噴きこぼれそうになる。
 無理して一緒にいてくれなくていいよ。
 胸の思いの内圧に耐えかねて、僕はそう告げるつもりで顔を上げた。
 その時僕を見つめていた聡は、何とも言いようのない不思議な目をしていた。苦しげで、それでいて熱のこもった真剣な目で、僕のことを見つめていたのだ。
 聡のこんな顔は知らなかった。読み進んできた本がいきなり途中から読めない文字に変わってしまったようで、僕は驚きと微かな怯えを感じた。何故、聡は僕のことをこんな目で見るのだろう?
 だが、その不可思議な視線はすぐにそらされ、聡はこの夏いつもそうであった通りの落ち着いた笑顔を浮かべて、
「何? 分からない問題があった?」
 と尋ねたのだった。


 その年の夏は、そんな具合で期待していたようには楽しめず、僕の胸にもやもやとしたものを残した。
 聡が東京に戻る最後の晩、僕は寝付かれずに窓辺に佇んでいた。数年前、同じようにこの場所に佇んでいた夜があったことを思い出す。
 あの生け垣の向こうを、当時小学6年だった聡の頭が通っていくのが見えたものだと思うと、寂しさに胸が締め付けられた。あの頃の僕らは、どこに行ってしまったのだろう。それとも、そんな子供時代の関係を求め続ける僕が間違っているのだろうか。
 その時、生け垣の向こうから背の高い姿が回ってくるのが見えて、僕はどきっとした。
 見間違いではない。聡だ。こんな時間にうちに何の用だろう?
 聡が通るのを待っていたように思われるのが恥ずかしくて、僕は障子の後ろに隠れた。胸を高鳴らせて障子の陰で固まっていると、金属が軋む音に続いて屋根の鳴る音が聞こえた。まさかと思った時には、黒ずんだ聡のシルエットが僕の部屋の窓に現れていた。
「物置が不用心だ。屋根伝いに部屋まで入れる」
 聡は窓の桟をまたいで僕の部屋に入ってきた。
「この村には、屋根から忍び込む奴なんかいないよ。家の扉だって開けっ放しのうちが多いんだから」
 僕はひそやかな興奮と疑問符でいっぱいになりながら、そう答えた。明日帰るという間際になって、今さら僕に何の用があるんだろう。
「いるだろう。こうやって忍び込む奴が」
 僕のベッドの隣りに腰掛けた聡は、二年の間に背が伸びて身体の厚みも増していた。そんな聡の側にいると自分が酷く貧弱に思える。
「明日帰る」
「うん」
「それで、お前とあまり話ができなかったと思って」
 では、僕に会うためにわざわざ来てくれたということなのか。聡にとって僕は退屈な子供ではなかったのだろうか?
 僕は思いがけない従兄の訪れが嬉しかった。相手にされていないという思いに打ちひしがれていた分喜びが大きくて、感極まってしまい、言葉もうまく出てこない。
「和希、大学は東京にしろよ」
 出し抜けにそう言われた。
「お前、成績いいんだろう。勿体ないよ。高校までは、叔父さん達がここを出さないだろうから、東京の大学に進学しろ。俺のうちから通えばいいんだし」
 そんなことを急に言われても、僕にはまだ目前に迫った高校受験以外は視野に入っていなかった。ましてや東京なんて。
 聡のいる東京へ。考えたこともなかったそれは、新しく生まれたドキドキするような可能性だった。お伽噺のようにも思えるその可能性に、僕はしばし酔った。自分のような田舎ものがやっていけるだろうかという懸念はあったが、聡がいるなら大丈夫かも知れない。
 聡さえ、側にいてくれるのなら。
 東京に行きさえすれば、聡といつでも会うことができるのだ。
 頭の中に閃いては消えてゆくビジョンにぼうっとしていると、いきなり肩を抱き寄せられた。急に近づく顔を呆然と見上げる。
 口付けられるまで、何が起こったのか分からなかった。
 聡の顔が離れてからもまだ、唇に押しつけられた柔らかく湿った感触が残っていた。
 キスは、恋人同士がするものだ。僕は従弟で、それに男だ。何故聡は僕にこんなことを? 
 驚いている僕を、聡はベッドに押し倒した。
「何……」
「静かにしろよ。叔母さん達に聞かれるだろう」
 押し殺した囁き声を出す従兄は、見知らぬ男のようだった。

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