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『蝉の唄 1』

※BL小説


 ヒグラシの声が聞こえている。
 部屋の窓に西日が差して、燃え尽きる前の最後の陽の光が窓ガラスに容赦なく突き刺さっていた。
 部屋の熱気と燻られるようなヒグラシの声が、矢も盾もたまらぬような焦燥を植え付け、僕を落ち着かなくさせる。
 両親も二つ離れた妹も本家に呼ばれて、この家には今、僕一人だ。
 盆には親戚中が本家に集い、夜を徹して飲み食いをする。子供達はご馳走が食べられる上に、本家の祖父母から小遣いが貰え、広い庭で花火ができるので、僕も幼い頃は正月以上に楽しみにしていたものだった。
 だが今は、今日がその日であることが少しだけ恨めしい。
 その集まりに出さえすれば、本家に逗留している聡(さとる)にも会える。それが分かっていながら、僕はここに残ることを選んだ。
 聡は明日には東京に帰ってしまうというのに。
 

 幼い頃の聡は僕にとって、一年に一度だけ夏に遊べる大好きな従兄だった。一つ年上の彼は来るたびに垢抜けて、対面する瞬間にはいつも僕に気後れを感じさせた。だが、
「和希(かずき)、遊ぼう!」
 という聡の言葉で僕たちの間のぎこちなさは消えて、気心の知れた遊び仲間に戻るのだった。
 木登りも沢渡りも川海老釣りも虫取りも、全部僕が教えたのに、聡はすぐに地元の子供よりも全てに巧みになった。
 でも僕は知っている。負けず嫌いの聡が、夜にこっそり本家を抜け出して木登りの練習をしていたことも、秘密のポイントを覚えておくために、密かにここいら一帯の地図を作製して、ポケットに忍ばせていたことも。


 僕がそれに気付いたのは、暑くて眠れずに窓辺で夜風に当たっていたとき、生け垣の向こうを通る聡の頭を見つけてしまったからだった。
 街灯も少ない田舎の夜道は、小学生が一人歩きをするにはあまりに暗い。窓から屋根におり物置の上に渡って庭に下りた僕は、聡の後をつけた。僕の心を占めていたものは、あぜ道を踏み外すんじゃないかという心配半分、どこに行くのかという好奇心半分だったと思う。
 聡は小さな稲荷の脇道を入っていった。昼間は楽しい遊び場所であるそこは、夜の闇の中では別の場所に変貌していた。狐の石像が今にも動き出しそうで恐ろしく、熱帯夜の暑さと興奮で火照っていたはずの肌が酷く冷たくなっていた。
 聡が、昼間に僕と木登りをした椎の木にとりついて上り始めた。この椎の木は、この辺りでは一番の大木で、てっぺんまで登ると村が一望できる。昼間の聡は、一番高い枝から二つ下の太枝まで来られたのだが、枝が細くなるそこからはどうしても登れず、悔しそうな顔をしていた。
 見ていると、昼間に上った枝まで聡は一息に上ってしまった。そこから少しの間逡巡していたが、意を決して上り始めた。地の子供と違って普段木に登り慣れていない聡の上り方はどこか危なっかしくて、見ている僕の掌にも汗が滲んだ。
 ついに聡がてっぺんまで登ってしまったとき、僕は自分のことのように嬉しくて、
「さとるちゃん、やったな!」
 と声を上げた。聡の驚いた顔が、すぐに悪戯を見つかったときの顔に変わる。僕が椎の木を上っていったときにも、聡はまだばつが悪そうな表情を浮かべたままだった。
「格好悪いところ見つかっちゃったな」
「格好悪くなんかないよ。さとるちゃんは格好いいよ」
 僕がそう言うと、聡は顔を崩して笑った。
 格好いいと言ったのは、お世辞ではなかった。僕より背が高くて手足が長く、端正な顔立ちをしている聡は、僕のみならず近隣の子供達の憧れの対象だ。着ている物も、母親が買い与えた物を疑問もなく着ている僕とは違って、随分と大人っぽく洒落ている。テレビで見るアイドルなんかよりずっと格好いいと、心の中でいつも密かに思っていたのだ。
 その従兄と二人きりで夜中に木に上り、風に吹かれている。それは僕には十分な冒険だったから、僕の胸は誇らしさでわくわくしていた。
 聡は、ジーンズのポケットから紙片を取りだして手渡してきた。
 それは、手描きの地図だった。地図の中央に描かれた大きな木が、この椎の木であることに気付くと、僕が教えた川海老のよく釣れるポイントや、虫取りをした林などが、克明に描き込まれていることが分かった。
「和希に教わったこと、忘れたくないからさ」
 憧れの従兄が、僕が言ったことをこんな形で大切にしてくれている。僕の胸は感激に震えた。
「もっと、教えることある。大きい地図、二人で作ろう」
 聡は嬉しそうに頷いた。
 その夏は、二人だけの秘密の地図を作ることに熱中した。カレンダーの裏紙に、ポケットには収まりきれないサイズの大きな地図を二人で描いた。 
 誰にも教える気はなかった釣り場や動物の巣穴の場所も、惜しみなく地図には描いた。他の誰かが見たときにばれたらいけないと聡が言うので、二人だけにしか分からない記号を考えた。
 その全ての作業が楽しく、聡との間に急速に親密な空気が漂い出したのがただ誇らしくて嬉しくて、僕は秘密の地図作りに夢中になっていた。


 その地図は、今も僕の机の一番奥にしまってある。
 二人で新しい獣道を発見したり秘密基地を作ったりするたびに、ぎっしりと謎の記号を書き込んでいった地図は、僕たち以外の誰かが見ても何の図なのか、地図であるということさえ分からないと思う。
 二人が地図の更新をしなくなったのはいつのことだったろう。少なくとも、僕が中学に上がったばかりの三年前までは、二人共にまだ地図のことを二人だけの宝物だと思っていたはずだ。


 聡が高校受験のために予備校に通うというので、一昨年はこの村に来なかった。心待ちにしていた僕は、深い失望を覚えたものだった。
 だから昨年、聡の訪れを知った僕の胸は喜びに弾んでいた。話したいことや見せたいものが沢山あったのだ。
 本家に急いで駆けつけた僕は、玄関に回る時間も惜しくて、サンダルを脱ぎ捨てて縁側から入った。
 座敷に座っている聡を見て、僕は言葉を失った。聡は二年の間に随分大人びて、ほとんど大人の男のように見えた。
「久し振りだね、和希」
 そう言った声も覚えているより艶を増している。
 僕を見る聡の視線が二年前とはどこか違っているような気がした。何かを探るような視線。僕の何かが聡を失望させたのかも知れないと、僕は怯えた。
 祖父母や聡の両親が座敷に入ってきて、再会が愉快でならないと言う様子で聡の高校のことや僕のことを話し始めた。僕は聡のことをちらちらと横目でうかがっていたが、聡は僕の方を見ようとしない。
 その夜、聡の口からはついに、
「和希、遊ぼう」
 といういつもの言葉が発せられることはなかった。

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