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大学教授の涙...

先日、ニュースでふと 軽井沢スキーバス転落事故から五年、という話題を目にした。

事故が起こったは五年前の2016年、1月15日未明。
軽井沢町の国道でスキー場に向かっていたツアーバスが道路脇に転落し、大学生など15人が死亡、26人が重軽傷を負った。

遺族、関係者が慰霊碑を訪れ、犠牲者を悼み手を合わせる様子は、見ていて胸が締め付けられる思いだった。

訪れた方の中には、 尾木直樹氏の姿もあった。
尾木直樹氏は、自身が名誉教授である法政大学のゼミで指導していた学生四名をこの事故で失った。
写し出された映像の中で尾木氏はこんなことを口にしていた。

「今日も四人の写った写真、持ってきたんですけれどね、見れないんです。年月を重ねると辛すぎて...」
「学生を指導する立場だと、若く、希望に溢れた学生が成長していく様子を見るのが本当に嬉しいんです。それなのに...」

そんな尾木氏の姿を見て、
私自身、過去にお会いした、とある大学の教授の姿を、私は無意識に重ね合わせていた。

両親と妹を一度に亡くした私は、葬儀では喪主として、三人と所縁のあった沢山の方々と改めてご挨拶だけでなく、時間の許す限りお話させていただいた。

そんな中で、一人、比較的高齢の男性が妹の所属大学の同期生、友人達とともに挨拶に来られた。
妹が在籍していた文学部の教授。
人目を憚らず泣きながら私の手を取り、
「本当に本当に素晴らしい学生を亡くしたことにとても辛い思いです。」
としきりに話してくださった。

後で分かったことだが、ふつうならあり得ない、畏れ多いほど過分な額の御香典を包んでくださっていた。

手紙でお礼というのも躊躇われたので
妹の友人達、同期生達にお願いし、キャンパスを案内してもらう時に、件の教授へお会いできる時間を設けていただいた。

大学こそ違えど、
妹はかつての私と同じように英語、英文学を学んでいた。
当初は全く違う学部、専攻を希望していた妹が結果として私と似た道へ進んだことはずっと不思議だった。

教授室へ入ってからは、とても気さくで温かい教授と沢山お話させていただいた。
お話させていただくうちに、私が大学在籍時にお世話になった学部内の教授とも多分に繋がりがあり、話に花が咲いた。

嬉しそうに目を細めながら、教授はしきりにこう話していた。
「◯◯さん(妹)があんなに優秀で素晴らしい学生だったのは、何よりもお姉さんの影響でしょうね。」
とんでもないです、私は何度も否定した。
けれども、教授はこうも話していた。
「お姉さんがあの大学で精一杯学ばれていた成果は、妹さんにしっかりと受け継がれていたと思いますよ。今日、確信できました。」

気づくと私の目には涙が浮かんでいた。

「それだけにね...まだまだ若くて未来ある妹さんの卒業まで教授として見届けられなくなったのは本当に辛いです。」

教授の心からの叫びに思えた。

教授と学生との関係性、というのものを改めて知ることができた。

私自身を振り返ってみると、残念ながら、小学校、中高一貫の女子校では恩師と呼べるくらい、影響を受けた教員には出会えなかった。

しかし、高校卒業後に入学した大学、そして、社会人になってから改めて大学へ編入し、大学院にも進んだ時には、指導教官だけでなく沢山の教授、助教授、講師の方々から沢山のことを学んだ。

それだけに、妹がまだ大学生活を残してこの世を去ったことは、とても不憫でならなかった。

それだけでなく、恩師の方々が、他の生徒たちと共に妹が卒業するまでを見届けることができなかったことも、筆舌しがたいほど無念なのだと改めて知った。

妹の恩師が葬儀の時に見せた涙も、私に語ってくれたことも。きっと妹が生きていたら、知らなかったはずのことばかりだ。

生徒達と共に涙にくれる教授の姿を見たこと、そして貴重な話の数々を聞いて、妹は沢山の宝物に囲まれていたことに気づいた。

改めて妹は沢山の人達との出会いに恵まれていたのだと、姉として心から感謝した。

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