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徳川家康さま☘️をたどる#59☘️関ヶ原直前、家康さまは一大勢力を作る❗️

初筆 2023年 11月 11日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける#徳川家康さまをたどる #59
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1 コンセプト

#徳川家康 さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
#家康さま やその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)

# 三河物語 / #大久保彦左衛門忠教 さま著

# 信長公記 / #太田牛一 さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 朝鮮半島から撤退してきた諸将と #石田三成 さまの間に不和が生じ、家康さまは諸将の話の聞き役を通して、豊臣恩顧の諸将の人心掌握スタート❗️

  • 家康さまは #五大老#五奉行 の間で禁止と決まっていた大名同士の婚姻を進めて行った。これによって朝鮮半島諸将の不満は収まるが、同時に、家康さまが政治の実権を握るための仕掛けでもあった。

  • 石田三成さまは家康さまを襲撃しようと企んだが、豊臣恩顧の武功派諸将が家康さまを護りに集結❗️また関東からは榊原康政さまが大軍勢を率いて上洛❗️家康さまの周りにはこんなに人が集まる❗️というデモンストレーションとなった。

  • 家康さま襲撃未遂騒動は、 #前田利家 さま・家康さまの話し合いでいったん終結。直後、家康さまを抑えられる唯一の存在、前田利家さまはお亡くなりになりました。

⬇️前回はこちら❗️

3 石田三成さま襲撃事件

1599年・慶長4年2月、石田三成さまの
家康さま襲撃未遂事件はいったん事態収拾しました。
しかし前田利家さまがお亡くなりになることで
政争はまた動き出します。

1599年・慶長4年3月3日利家さまお亡くなりでした。
その翌日、唐入り時から顕著になってきた
五奉行の政治運営に不満を持つ
#七将 が石田三成さまを大坂で襲撃しようとしました💦この七将とは

  •  #細川忠興 さま

  •  #蜂須賀家政 さま

  •  #福島正則 さま

  •  #藤堂高虎 さま

  •  #黒田長政 さま

  •  #加藤清正 さま

  •  #浅野幸長 さま

です。
この襲撃は三成さまを成敗する目的で実行され、
三成さまは伏見の自邸に逃れました。
三成さまが伏見に入ったのは、五大老うち三成派の
#毛利輝元 さま・ #上杉景勝 さま、そして五奉行うち
#前田玄以 さま・ #増田長盛 さま・ #長束正家 さまが
伏見に詰めていたからです。

対して七将うち
加藤清正さま・黒田長政さま・浅野幸長さまは
三成さまを追って伏見に向かいました。
これは大騒動です❗️💦💦

家康派と三成派の間で大騒動となり
解決にあたり北政所さままで動いた、とも
言われています💦

そして、家康さまと毛利輝元さま・上杉景勝さまの
間で収拾策が話し合われ、石田三成さまは自領の
近江佐和山城に退隠することになり、
1599年・慶長4年3月10日に佐和山城に向かいました。
家康さまはご次男の #結城秀康 さまを
三成さまを佐和山城まで護衛して送りました。

この騒動は広く知れ渡り、勃発から収拾までの動きで
家康さまは天下人になった❗️と世間に認識
されました❗️❗️

4 家康さま伏見城入城

そして家康さまは #伏見城 入城、つまり
伏見城に常駐し政務を司ることになりました。

家康さまは、ご自身の指導力と人望で
秀吉さまの亡きあとの豊臣政権の一連の騒動を
収めてみせることで、指導力を世間に高く評価され、
天下一統の保持を任せられる存在として
期待されるに至りました☺️

こののち家康さまが指導した政務のうち
大きなものは以下です。

  • 薩摩島津氏の内乱における島津氏の援護のために、九州の国衆に出陣を命じた。

  • 東南アジアのパタニ国からの国書に返書を遣わすことで、海外にも指導者は家康さまであることを認識させた。

また、後陽成天皇のもとに参内したときに、朝庭は、
家康さまを以前の秀吉さまと変わらぬよう扱い、
実質天下人として認めました。

家康さまにとっては、日々の政務をこなすことが
ご自身が天下人であることを喧伝することになり、
国外国内いずれにも広く、実力者と認識されて
いきました。

しかし、これらの指導者的立場は
「豊臣政権内で政務を取る指導者」の家康さま、
という世間の認識でもあります。
実質すべての政務を家康さまが執っていても、
それは秀頼さまの補佐役という立場での執政、
とも世間は認識していました。

5 家康さまの認識

この状況は家康さまもご認識していて、
それでよし、と思うか、豊臣政権を廃して
徳川政権を作り上げるかは、
ケースごとに先を読みつつ、つまり、
豊臣政権内の第1実力者としてこの先どうなっていくのか
徳川政権を樹立した場合この先どうなっていくのか
をそれぞれ細かくお考えだったことでしょう。

さらには、政権がどうなっていくのか考えるとき、
世間はそれを受け入れてくれるのかどうか、
世間と言っても、
各大名や大小の国衆など武家だけでなく、
日本国中で生きる農民もいれば、
商人や工芸者も、そして公家や朝庭までも含んで、
それらの人々が、家康さまが日本国の
指導者であることを受け入れてくれるのか、
このころの家康さまはそこまで考えていたことでしょう☺️

家康さまは、こういった思想的な面までを
考えるときの顧問として、南光坊天海さまを
そばに置いていました。
南光坊天海さまがいつから家康さまのそばに
遣えるようになったかは明らかにはなってません。
北条攻めのときには家康さまの陣にいたという資料が
浅草浅草寺にはあるとも言われています。
あるいは関ヶ原合戦絵図には家康さまの陣に
「南光坊」と記された人物が描かれていたりします。

天海さまは、表向きは、江戸幕府の極めて初期に
徳川政権の朝庭政策・宗教政策の顧問を
なさったかたです。
そして、家康さまが、豊臣政権を滅ぼし、
徳川政権を樹立するとき、家康さまが思想を
どのように持てばよいのか、その相談役としても
天海さまは重要な人物であったと伝え聞きます。

家康さまは政務中でも戦場でも時間が空けば
天海さまについて勉強なさったと言われています。
北条攻めのころからそういった関係が始まったと 
考えると、家康さまは50歳過ぎてからなお、
指導者として働くための思想的背景を
学び始めたことになります❗️❗️

6 家康さま大坂城入場❗️


伏見城で政務を執り、
豊臣政権の主導権を示していた家康さまは、
1599年・慶長4年9月9日に
重陽の節句で大坂城に出向く家康さまを暗殺する
計画があることを五奉行の1人の増田長盛さまの
通報で知り、
伏見に常駐の徳川家大軍勢を率いて、
大坂城に入りました、いや、大坂城を占拠したと
言っても過言ではありませんでした💦
この騒動は同年9月13日にはだいたい収まりました。
そして、豊臣政権の政治運営を掌握しました。

また大坂城中で反家康さま勢力と疑われた
#前田利長 さま・ 加藤清正さまの上洛を阻止するため
別の豊臣恩顧の軍勢を越前と淡路島に配置しました。

そして1599年慶長4年9月27日
元、 #北政所 さまがいらした
大坂城西の丸にお入りになり
さらに豊臣政権のメイン執政役の立場であることを
世間に誇示し、これまでの豊臣政権運営の決め事を
ご自身が政務を執りやすいように改め、
政治運営を主導なさいました。

例えばこのころ勃発した、備前宇喜多家の
お家騒動なども捌いてみせた家康さまで、
五奉行うち残存の三奉行、前田玄以さま・
増田長盛さま・長束正家さまは、このころは
家康さま主導の政治の実務担当として
お働きだった様子です。

7 加賀前田家・会津上杉家との確執

家康さま暗殺計画との関わりを疑われた前田利長さまと家康さまの緊張関係は続いていましたが、
1600年・慶長5年に入ると、利長さまは
家康さまからの圧に負けたのか、

  • 家康さま五男の #武田信吉 さまを養子として、加賀二郡を割譲すること

  • 母君の芳春院さまを江戸に人質に出すこと

を家康さまに打診、後者の人質出しのみの実行で
前田利長さまと家康さまは実質和睦となり、
利長さまは家康さまに臣従なさいました。

1598年・慶長3年秀吉さまがお亡くなりになってから
1600年・慶長5年までの家康さまは、
緊張関係で軍勢を率いることはあれども、
まさに戦なしで次々と大名や各地の国衆を
家康さまに臣従させていきました。

しかしこの頃の家康さまは、実力者ナンバーワンの
天下人でしたが、それはあくまで豊臣政権下でのこと、
豊臣秀頼さまを頂点とする政治体制下での
実力者と、世間は認識していましたし、
それは家康さまご自身が1番わかっていたことです。

そんなとき、1600年・慶長5年2月には、
半年前から領国に帰っていた上杉景勝さまが
領国の整備や運営を始めていました。
整備の中には城普請や武器弾薬の補充も
含まれていました。

この上杉景勝さまの動きを、越後堀秀治さまが
景勝さまの謀反である、と家康さまにご報告、
家康さまは景勝さまに上洛し申し開きすることを
促しますが、景勝さまからは #直江兼続 さまが
記したとされる #直江状 が送られてきました。

直江状の内容は家康さまが天下を盗もうとしている、
豊臣政権における大老ににあるまじき行為を
行っている、と家康さまを弾劾すること内容で、
家康さまは上杉討伐を決定しました❗️💦

そして、1600年・慶長5年6月に
奥羽の #伊達政宗 さま・ #最上義光 さま
北陸の前田利長さま・堀秀治さまに
それぞれの方面から上杉景勝さまに向けての
出陣命令を出すとともに、家康さまは大坂から
5万人以上の大軍勢を率いて会津に向けて出陣、
7月には江戸城にお入りになり、
同年7月19日には #徳川秀忠 さまが
同年7月21日には家康さまご自身が
上杉討伐の出陣をなさいました💦

8 次回

1600年・慶長5年、関ヶ原の戦が起こるのは
9月15日、その2ヶ月前に上杉討伐で会津に向かっている
秀忠さま、そして家康さま💦💦

この上杉討伐から関ヶ原に至る経緯はいかに❓
もしかして、上杉景勝さまと石田三成さまは
打合せ済みの行動をなさってたのかっ❓💦💦

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