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徳川家康さま☘️をたどる#39☘️本能寺の変

初筆 2023年 6月 17日 / 加筆修正 未
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スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#39
⬇️
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1 コンセプト

徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)

  • 三河物語 / 大久保彦左衛門忠教さま著

  • 信長公記 / 太田牛一さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 家康さま40歳にしてやっと遠江を領国内隅々まで平定。浜松城に入ってからまる11年かかった💦

  • 武田方からご一門衆の木曾義昌さま・穴山梅雪さまが離反。武田勢力の国衆の離反が止まらなくなり、1582年・天正10年、武田氏滅亡。

  • 武田勝頼さまの反省点は、信玄公と比較して、自分のオリジナリティを出すのが早すぎたこと、部下が育ってなかったことなど。

  • 家康さま駿府を賜る、信長さまへのお礼に安土城へ、その足で堺見物へ

前回はこちら
⬇️


3 織田信長さまの天下統一事業

前回までは、武田勝頼さまをたどる、
というタイトルにするほうが
よいくらい勝頼さまについて話してきました。
今回は半分くらいは、織田信長さまをたどる、
という内容です💦

やはり本能寺の変は当事者は
織田信長さま・明智光秀さまであって、
堺見物をしていた家康さまは
本能寺の変当日、大きな影響はありましたがそれは後ほど。

織田信長さまというと

  • 既存の概念を破壊する

  • 国家体制を根本から変える

  • そのために武力による国内統一を行う。いわゆる天下布武の姿勢

と考えられがちです。
信長さまのお考えをそう捉えると、
日本国内の大名が自治統治する小国家があるのではなくて、
たとえば
家康さまなら三河・遠江・駿府、
このころの羽柴秀吉さまならば播磨(姫路あたり)、
を、信長さまの名代として信長さまのやり方で
領国統治をする、と考えてしまいそうですが、
決してそうではありません。
家康さまには家康さまの自治による領国統治を
秀吉さまには秀吉さまの自治による領国統治を
行なっていました。他の大名も同じです。

信長さまはその国々にモンダイがないようなら
信長さまに従った大名の自国領国統治方法は
総領国領主である大名のやり方に任せました。

つまり、信長さまに付き従うことを決めた
戦国大名に対しては、その国の統治方法を保障、
その代わり、
周囲と勝手な戦はするな、
中央政府が軍事的行動を起こすときは与力せよ、
税はいただく、
という、旧来の武家統一方法の流れを汲む方法で
信長さまは日本国を天下統一しようとなさってました。

信長さまが、これまでの武家棟梁と違ったのは
経済的に日本国の平和的統一をするために
邪魔となる経済活動をしてる勢力が
信長さまの言うことを聞かないときは
その勢力を徹底的に破壊する、ということ
だったのです。具体的には

  • 比叡山焼き討ち

  • 石山本願寺攻め

  • 足利義昭追放

他にも細かいことはあるかと思います。
比叡山焼き討ちなどなぜ実行されたか。

比叡山つまり天台宗総本山が
武力を持ち、周辺一帯を武力制圧し、
近隣の反信長勢力に軍事的な協力したのですが、
信長さまは比叡山がなぜそういういことが
できるのか、お考えになりました。
ときには京都へ出て武力デモンストレーションをし
公家に必要以上に金品をせびり武力維持や
贅沢をするのための資金源としている。
あるいはその自治領内からも税を集めている。

信長さまの主張は、寺は学問・修行をする場であり
それに相応しい資金があれば十分、というお考え、
これ常識的な考え方ですよね😉🤚
帝・足利将軍の名代としての信長さまから
武力による経済的搾取をやめよ、という命令が
入っても、無視し続けたために、
信長さまは比叡山焼き討ちしたのです。

ところが比叡山は旧仏教の総本山、
他人聞きには、信長さま仏教をも恐れぬ、
魔王である、みたく言われてしまいます。

信長さまが実行した、一見非道と思われることは
実は、日本国全体を戦乱のない世の中にするために
今現在クリアしなくてはならない問題を
特に経済的なモンダイを解決するために、
どうしても武力制圧が必要なときのみ行ったのです。
そしてそれは織田信長さまのご親族やご家臣、
あるいは与力する外様大名は、理解していたことでした。

信長さまは、付き従う勢力の領国内では
領主ごとの統治方法を否定せず任せておき、
日本国を統治しようとしていたのです。

4 家康さまと信長さまの関係

桶狭間の戦の翌年、1561年・永禄4年に
家康さま・信長さまは和議(家康さまは今川方だったので)を
結んで以来、1560年代徐々に織田・徳川同盟は成立しました。
同盟結成当時は対等な同盟であったのですが、
本能寺の変の起こる1582年・天正10年には
家康さまはすでに政治的・軍事的な保護傘下にありました。

徳川氏が甲斐武田氏との抗争をしていく中で
織田軍のサポートを必要とし、
徳川氏は織田氏への従属度合いを大きくしてしまい、
家康さまは実質、信長さまの家臣という状態でした。
甲斐武田氏滅亡後、駿河を家康さまに与えたのは
信長さまということからもそれがわかるかと思います。

また、信長さま・家康さま間の書簡でも
家康さまは信長さまに直接書簡を出すのではなくて
信長さまの取次担当宛に出すことになりました。
また信長さまからの書簡の留め文句は
対等関係の「恐々謹言」から
下位の者への「謹言」となったことからも
家康さまは信長さまの家臣状態だったことがわかります。

ただ、家康さまのお立場は、
織田家譜代の家臣、たとえば柴田勝家さまや
羽柴秀吉さまあたりとは少し異なり
信長さまご嫡男、信忠さまと同様の
織田家ご一門衆でもありました。
お付き合いの古さ、および、信長さま五女の徳姫が
家康さまご嫡男の信康さまに嫁いだという経緯も
あってのことです。

5 さて本能寺の変をざっくり説明

本能寺の変、いちおーざっくり説明します。
共周りの者を従えて、中国地方に赴く途上の
本能寺にて宿泊中の織田信長さま。
家臣の明智光秀さまご謀反で
本能寺の織田信長さまを奇襲、
信長さまはお命を落とした、また、
信長さまの後継者のご嫡男、織田信忠さまは
ご宿泊所の二条城で明智勢に攻められご落命。
日付は1582年・天正10年
というのが、本能寺の変の事実、
ということになってます。

現代に伝わっているのは事実のみで
明智光秀さまの動機、協力者の有無、
本能寺の変を企画立案したのは
本当に明智光秀さまなのか、
第三者のアイデアが導入されているのか
そのあたりの本能寺の変が、なぜ起こったのか、
はまったくわかっていません。
これが解明させるような当時の一時史料が
発見されないかなぁ😂

個人的には、信長さま自らが
ご企画立案なさったと考えるのが好みです😂

6 本能寺の変のとき家康さまは?

本能寺の変の少し前、
駿河拝領のお礼を述べに安土城にいらした
家康さま、やはり共周りの者のみを連れて
1582年・天正10年5月21日にご上洛、
京・大坂・奈良をまわり、
本能寺の変、当日、6月2日は
逗留先の堺を出立し、再び上洛するところでした。

家康さまご近臣の本多忠勝さまを
先に京へ遣わしたところ、
忠勝さま道中にて、堺へ急ぐ家康さま御用商人の
茶屋四郎二郎さまとばったり会い、
そのままお2人は堺に戻りました。

茶屋四郎二郎さまは
本能寺の変・信長さまご落命や、
明智光秀さまは信長さま居城、安土城も攻めに向かった、
家康さまも織田家ご一門衆なのだから
追って明智光秀さまが討伐軍を
堺にも向けるであろうことなどを家康さまにご報告
したのでした。
持つべきものは情報網ですねぇ。

7 次回

本能寺の変に勃発で
旅先なのに
そして、何もしてないのに
命を狙われることになった家康さまっ❗️

家康さま共周りの者の数はわずか💦
明智軍とはとても戦などできない❗️
自領、三河・遠江・駿河に帰るにせよ
京を通れば確実に明智勢に討伐されるっ💦

家康さまいつでも大ピーンチ❗️😂


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