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徳川家康さま☘️をたどる#38☘️武田氏滅亡と家康さま領国統治

初筆 2023年 6月 10日 / 加筆修正 未
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スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#38
⬇️
https://stand.fm/episodes/6485349efa3ea643082ca817

1 コンセプト

徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)

  • 三河物語 / 大久保彦左衛門忠教さま著

  • 信長公記 / 太田牛一さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 武田勝頼さま、徳川領に攻め入るための後方安全策として上杉家のお家騒動に首を突っ込み、これまで同盟関係にあった北条氏との同盟関係が切れた。そのため織田・徳川両家と同盟を結ぼうとする。

  • 家康さま、高天神城を攻めるに当たって、しっかり作戦を立て準備、時間をかけて武田援軍の補給路を断つための砦を作り、メンタル面からも高天神城を攻め、年月をかけて陥とした。

  • 織田信長さまは勝頼さまからの同盟依頼をのらりくらりかわし、勝頼さまが高天神城に補給できない状況を作っていった。

  • 高天神城が陥ちてからは「惣国・境界線上に援軍も出せない勝頼さま」という戦前広告を内外に向け行い、勝頼さまの評判は地に落ちた

前回はこちら
⬇️

3 遠江・三河を束ねる家康さま

家康さま、やっと一段落しましたね☺️
家康さま40歳、1581年・天正9年
3月22日に高天神城は陥ちました。

あえて先に今後のトピックを話しておきます。
この後「天正10年(1582年)の激動」とでも
呼ぶべきことが起こります。それは本能寺の変❗️
実質、日本全体を統一しつつあり、機内・中部地方を
ほぼ配下に治めていた織田信長さまが
家臣と思われていた明智光秀さまに急襲され
信長さまお命を落とした有名な事実❗️

その1年前、家康さまはやっと高天神城を
陥とすことができ、遠江をやっと平定、
三河・遠江の2国のみを辺境まで
統治できるようになったのです。
家康さまが浜松を拠点としたのが1570年・元亀元年
それから11年後のことでした。

いずれは天下を治める礎を築いた家康さまですが、
このときは40歳、
しかも信長さまがお亡くなりになる直前、
やっとこさたった2国をきっちり統治できるように
なったばっかり💦
天下取ろうなどとは思いませんよね❓

ともかくも家康さま今は内政をきっちり
整える時期をお考えになり、

  • 1581年・天正9年より「三河守」のみの署名による文書発給を始めた。これは今川義元さまの署名を踏襲し、家康さまの「国主」としての立場を権威づけるためのもの

  • 翌1582年・天正10年より「福徳朱印状」に「⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎奉之(これをうけたまわる)」という担当者名を記した奉書式文書発行をスタート、これも国主の立場から担当者経由での文書であるという組織が重層化していることを表す権威付の一環

などで、総領国の統治をなさっていきました。

4 甲斐武田氏の国衆離反

高天神城に補給出せずに
世間の評価、この時代の言葉で言うと、
「天下の面目」を著しく失墜させた武田勝頼さま、

その状態のときに織田軍が武田領内に
侵攻してきては、武田総領国国衆うち
織田・徳川境界線上に位置する国衆は
たまったもんではありません。
織田軍に従属する意思表示をしなければ
戦を仕掛けられ領国は取られお家は滅亡します。
1582年に入ってすぐ、甲斐武田氏から
有力なご一門衆の離反がありました。

  • 木曽義昌さま・信濃国衆

  • 穴山梅雪さま・駿府北部

の2家です。この2つの離反は
甲斐国に衝撃が走りました。
木曾義昌さま・穴山梅雪さまとも
甲斐武田氏のご親族であり、
木曾義昌さまの領国は織田信長さまとの境界に
穴山梅雪さまの領国は徳川家康さまとの境界に
位置していました。

両家が織田家に与することにしたのを
よくある小説やドラマなどでは「裏切り」と
表現したりしますが、そんな一言で片付けられる
ものではないと思います。

木曽一族・穴山一族ともに
守っていかなければならない家臣や領民を
それぞれ抱えています。
明らかに強力な軍が自分たちが現状所属している
息も絶え絶えの家に攻めてくるなら
その前線基地の自分の地盤は踏み潰されます。
それよりも戦う前に恭順の意思を示して
領地の平和を維持するために
家ごと保護してもらうのが、領主として
1番賢明な守備ではないでしょうか❓
この離反は裏切りではなくて、
木曾義昌さま・穴山梅雪さまが
領主としてすべき仕事をまっとうに行っただけのことなのです。

そしてその1番賢明な領主2人が
武田家を離れたことで、武田家に所属していた
信濃・駿府あたりの境界線上国衆の離反は加速されました。 

5 甲斐武田氏の滅亡


そして家康さまは穴山梅雪さまを与力とし
駿府から甲斐にせめこみました。
また相模北条氏も織田信長さまと同盟済みで
駿河東部に残っていた武田勢力域を撃破。
信濃では武田方の仁科信盛さまの信濃高遠城を
なんとか守っていましたが
1582年・天正10年3月には落城。

武田勝頼さまは建設中であった新府城が
未完成で籠城できない城であるため新府城に火をかけ、譜代家老衆であった小山田氏を頼りますが、
その小山田氏も勝頼さまを受け入れることを拒絶
わずかな供回りを連れて甲斐国・田野・天目山で
織田軍に討たれます。
ここに戦国大名武田氏は滅亡します。
1582年・天正10年3月のこと、
高天神城が陥ち、勝頼さまが評判を落としてから
わずか1年後のことでした。。


6 勝頼さま反省会🤣と家康さま駿府を賜る

討ち取られた武田勝頼さまの首級を見た信長さまは
「日本にまたとない武将であったが、
 運がおつきになり、こうなられたことよ」と
勝頼さまを偉大な武将の1人であったと
尊敬の念をもった感想をお話になりました。
三河物語に記述があります。

勝頼さまの失敗はどこにあったのか考察します。

  • 信玄公と比較して、自分のオリジナリティを出すのが早すぎた。長篠の戦では信玄公なら撤退のところ開戦という判断。これは間違いだったかと思います💦

  • 組織編成を徐々に自分のスタイルに持っていくべきであった。信玄公時代の宿老は時代が変わるといなくなります。若い家臣を育てるべきでした。

  • 信玄公からは勝頼さまは、勝頼さまのお子がお育ちになるまでのつなぎの領主であると言われていてそこ中途半端な扱いをしてしまった。

  • もし上記言いつけを守るなら自分のオリジナリティなど出さずに、軍備や資金を蓄えるべきだし、同盟も先の先を見て慎重に行うべき。

  • つなぎ領主という言いつけを守らないのなら、それでも軍備・資金・同盟などやるのは同じにせよ、名前をたとえば「頼信」とか「勝信」とか「信」の字を名前に入れて、この時代の武田家の当主であるということを形で示すべきであった

などでしょうか。

武田氏滅亡後の信長さまの知行地沙汰を
三河物語より引用します。

信長は知行地を沙汰される。
上野(こうずけ)を滝川伊予守(一益)にくださる。
甲斐国を川尻与兵衛(秀隆)にくださる。
駿河を家康にくだされて
「富士をひとめみよう」とおっしゃって
女坂(甲府市)柏坂(甲府市・柏尾坂)を
お越えになり、駿河に出て、根堅をお通りになり
遠江・三河経由でご帰国なさる。

家康さまは駿府をいただいたお礼に
このころの信長さまの居城の安土城に
お訪ねになり、そのまま京の都におのぼりなりました。

三河物語より信長さまのお言葉
「家康、堺へ行って、見物なされよ」


7 次回

武田氏の脅威がまったくなくなり
駿府までちょうだいできた家康さまっ❗️☺️
一段落したとばかり、信長さまの誘いに応じ
大坂の南側は堺の自由貿易港としての活気をご見物
さあ自国へ帰ろうと出立した矢先に入ってきた情報は
信長さまお命を落とす❗️💦

供回りだけの家康さまは、信長さまのご盟友
命を狙われるは必定❗️大ピーンチ❗️❗️


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