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徳川家康さま☘️をたどる#37☘️遠江平定

初筆 2023年 5月 27日 / 加筆修正 未
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スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#37
⬇️
https://stand.fm/episodes/647bfcee3f7a2bfa4b4a72dc

1 コンセプト

徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)

  • 三河物語 / 大久保彦左衛門忠教さま著

  • 信長公記 / 太田牛一さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 1577年・天正5年、17歳となった家康さまのご嫡男、岡崎三郎松平信康さまは若大将に成長

  • しかし信康さまの奥方・五徳姫が中傷12ヶ条をお父さまの織田信長さまに送る、それを届けたのが家康さまの宿老トップ酒井忠次さま

  • 内容は、信康さま不行状・築山様武田家内通など

  • 酒井忠次さまは信長さまに一切申し開きをしなかったのもあり、信康さまは切腹するはめになった、実は家康さまが、築山様も込みで、亡き者にしたかったのかも

前回はこちら
⬇️


3 武田勝頼さまの外交ミス

武田勝頼さまは、1578年・天正6年に勃発した
上杉家の跡目争いである御館の乱に首を突っ込み
上杉家から養子に入っていた上杉景虎さまに
跡目をつがせることができずに、
武田氏と相模北条氏は険悪になっていき
これまで実行されていた相甲同盟が破綻します。

またその後、上杉家の跡目を取った上杉景勝さまとは
甲越同盟を結ぶことができましたが、御館の乱の直後の
上杉氏は武田氏の背景勢力にはなり得ませんでした。

どうしてこのようなことになったのか
武田勝頼さま、惣領国の周辺を考えたときに
上杉🆚武田は信玄さま亡くなる直前から
実際の戦闘こそないものの、いまだ、緊張関係にはありました。

領国の西・南に織田・徳川両家が対峙する中、
領国の北・東はすべて同盟関係にしておきたい、
つまり現状、南東の相模北条氏とは同盟関係にあり
あとは北側の上杉氏と安全な関係を作っておきたい、
そう願うあまり、上杉氏と同盟は結べたものの
そのせいで相模北条氏と決裂してしまった。
しかも新たな同盟の越後上杉氏は背景の勢力とは
ならないほど弱体化している、
武田勝頼さまちょいとやらかしましたか❓

4 相模北条家と徳川家同盟

一方で、1579年・天正7年、前回に話した
岡崎三郎松平信康さまを自害させたのは8月、
これによって内外に🆚武田を主張した家康さま。
さらにその直後、9月には相模北条氏と家康さまは
同盟を結びます。もちろんお互いに
🆚武田氏という共通の敵に向けての同盟。
信康さま事件と相模北条氏との同盟、
この2つは決して別の話ではないのです。

甲斐国を中心としてみたときの同盟関係の
大きな変化により、武田勝頼さま、ほぼ孤立してしまいました。
これが武田氏滅亡の第一フラグだったのです。

5 高天神城包囲網・家康さまの6つの砦

1580年・天正8年3月、家康さま、高天神城の攻略を開始❗️
高天神城は武田領国内で唯一、港へ続く拠点であり
また難攻不落の天然の要塞、山城でもありました。
陥とせるのか、家康さまっ❓❗️

さてここで家康さま、このころ40歳直前😂
さすがに思慮深くなってきたか❓
作戦を立てます。

まずは、高天神城から浜松側に
せめて来られないように高天神城の西側、海沿に
横須賀城を築城します。
この城は港に直結、物資や兵力の大量輸送に
大いに役立ったとのこと。

そして、家康さまは
天然の要塞=孤立無援にもなりやすい、
ならば武田家からの補給経路を断てばよい、
とお考えになりました。

高天神城は武田領国からすると「飛地」的な感じで、
物資補給は陸路なら駿河を海岸沿いに
しかしもっと安全に補給するには
海を通り、高天神城東側の小山城を中継地とし
そこからスグ近くの高天神城まで陸路というのが
一般的コース。

家康さま、高天神城と小山城の間に
以下の砦をお作りになりました。

  • 火ヶ峰砦

  • 小笠山砦

  • 能ヶ坂砦

  • 獅子ヶ鼻砦

  • 三井山砦

  • 中村山砦

これらの砦は高天神城攻めにあって絶大な効果を発揮。
まず、家康さまの目論見通り、武田氏の
補給路を完全に遮断しました。
この時点で高天神城が陥ちるのは時間の問題となりました。
その次に、これらの砦はすべて高天神城から
3km前後の距離に作られました。
山城である高天神城からすべての砦は見える距離。
徳川軍の御旗がどんどん増えていく。
高天神城と武田領の間に次から次へと
徳川方の砦が築かれていき、
武田勝頼さまの援軍の見込みが
ジリジリと薄くなっていく、そんな様子を
毎日のように見せられてしまい、
徐々に繊維喪失につながっていきました。

さらには城を完全に包囲する
柵と堀も作った家康さまでした。
そうしておいてから1580年・天正8年8月
家康さまは高天神城に総攻撃を始めました。

6 高天神城をめぐる駆け引き

武田家からすると高天神城は、
敵国である徳川領国との境界線に位置し
しかも敵中深くに入り込んだ
衝突の起こりやすい拠点。
惣領国の領主である武田勝頼さまは
当然、援軍をいつどのように出すのだろうと
自国・他国問わずに、観察されます。
境界線の地域を助けることができる領主なのか
助けることができないのか、
それで領主としての格付けがされてしまうのです。
勝頼さまも当然それはわかっているはず。

勝頼さまは、果たして
。。。
結果として援軍は出せませんでした。
いや、出しませんでした、でしょうか。
どういうことか❓

武田勝頼さまは他国との同盟を
実質失くしている状態と話しました。
勝頼さまそのまま放置するほどの
バカではありません。
ではどこに同盟先を求めたのか。

実は様々な書状などに
高天神城攻防の直前ころより
織田信長さま、そして信長さま経由して
家康さまとの同盟を結び、甲斐国の西側の
政情を安定させたいとお考えで
信長さまに同盟を申し入れていたのです。

そして、信長さまはのらりくらりと
決定的な返事を遅らせていました。
と、同時に家康さまには高天神城は
そのまま攻め続けよ、と指令を出していました。
高天神城にこもる籠城衆から
家康さまに降参したい、
高天神・小山・滝堺の3城は譲渡する代わりの
籠城衆の助命嘆願を願い出られたときも
家康さまの目的としてはこれで🆗なんだけど
信長さまは黙殺せよ、との指令。
家康さまは信長さまに従い、助命嘆願を黙殺。

一方で武田勝頼さまは
信長さま・家康さまと同盟を結びたいので、
同盟決裂につながる可能性がある
高天神城への補給・援軍は控えていたのです。
同盟成立すれば高天神城がどの家の領国になるにせよ
平和的な解決ができるというお考えだったのでしょう。

ここまで話してきてわかるかと思いますが、
勝頼さまは同盟に期待、なんとか成立させれば
境界線を少々失くしても領国保全はできる、
領主としてもメンツを保てるとお考え。
一方で信長さまは、高天神城を家康さまに陥とさせる
つもりで指示を出し、高天神城陥落は
武田勝頼さまが援軍・物資補給をしなかったため
陥ちてしまった、ということを劇的に演出、
それを内外に広く宣伝・広告し、
勝頼さまの評判を地に落とすつもりだったのです。

そして高天神城は。。
家康さまが陥としました。
1581年・天正9年3月のこと

高天神城を実際に陥としたのは家康さま、
そしてその陥落プロセスで勝頼さまは
援軍も補給も出せない領主である、という
プロパガンダをしたのが信長さま。
家康さま、たぶん、1年後くらい
武田家が滅亡する1582年・天正10年には
この宣伝・広告の重要さを理解したんでしょうね❓

とにもかくにも
これで家康さまは実質、
遠江を平定、政情を安定させることができ
遠江・三河の2国を惣領国とする大戦国大名となりました
いちおー、ね😂


7 次回

高天神城を自領内に取り込み、
実質遠江を平定した家康さま。
きっとちょっとゆっくりしたいところでしょうが、
実質l、信長さま配下状態の家康さまに休みはないっ❗️😂
次なる信長さまの指令は何なのか❓
そもそも家康さまこの時点でも
たかだか2国しか領有してないのって大丈夫なのっ❓


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