見出し画像

教職取得までの過程を偲ぶ

中学校の教育実習に行った話。
の前日譚として教育実習に行くまでの話。
本気で教師を目指している人、先に謝っておきます、すみません。


大学4年の秋、地元の中学校に教育実習に行った。

取得する免許は高校理科一種だったので出身高校に行くつもりだったのだが、応募しようと思った時には高校の書類提出期限を1か月過ぎており、本当に申し訳ありません、すみませんが何とかお願いしますと頼み込んだが、ちょっとこれはあんまりですと受け入れてもらえなかったので、泣く泣く地元の中学校にお願いした。

我々が通っていたころ、地元の中学は少々荒れていた、と言われていたらしい。本当かどうかは定かではないが、高校に入ってから友達に聞くところによると、受験の時、我が中学の制服が群れているのを見て心底ビビったらしい。確かに(当時は気づかなかったが)一部の授業は崩壊していた。授業の始まりと共に一人で教科書を読み、残りの時間は生徒と雑談をしていた英語の先生。一人、怒りと悲しみを湛えた顔でピアノを奏でていた音楽の先生。定期的にガラスは割れるし、いじめも蔓延っていた。そういえば恐喝による逮捕者もでていた。私も彼に拾った1円を上げた気がする。恐喝って感じではなかったと思うが。

そんな環境でもある程度楽しく中学校を終えたのだが、とにかく中学生とは人生の中で最もやんちゃで、生意気で、ひねくれて、繊細な時期であるという印象が強い。

もう一度あの中に、しかも教師として放り込まれるのか。

非常に憂鬱だった。

英語の先生の、音楽の先生の哀愁が頭をよぎった。



もともと教師になる予定はなかった。

企業で勤めたり、自分のやりたいことを追及して、

生き詰ったら(誤変換だがなかなか良い誤変換だったので残した)地元に帰って教師にでもなるかな、といった程度の考えだった。

教育学部ではなかったので、他学部向けの教職の授業を履修していたのだが、私はとにかく浮いていた。



そもそもなぜ教員免許取得を目指したのか。

教師を目指す人間の動機は主に3つに分けられるとある教授が言っていた、

一つは、子供が好きだからというもの。これは補足することもない。

一つは、ある先生を見て志したというもの。良い先生に出会ってこの先生みたいになりたい、と思った人もいるだろうし、逆にこの先生みたいにだけはなりたくないという文字通り反面教師をみて志した人もいるだろう。

一つは、教師である親を見てというもの。教師の子が教師になるパターン は非常に多いそうだ。ただ、親が教師でその姿を見てきたからこそ教師にならないという同級生もいた。まあ、やはり親の影響というものは大きいのだ。

回りを見ても大体どれかに当てはまっていた。

あとは教えるのが好きだからという人も一定数いたが、それは二番目に属するような気がする。

一方の私はどれにも当てはまらなかった。

まず子供を好き嫌いという括りで見ていない。所詮は一人の人間であるので、大人だろうが子供だろうが、好きな人は好きだし、嫌いな人は嫌いだ。別に子供を特別視する理由はないと考えている。

きっかけとなった先生もいない。いい先生、悪い先生と様々な先生にあたってきたが、その人たちを見て先生になりたいと思ったことはなかった。
強いて言えば、大変に失礼な話だが、高校の時の数学の先生を見てこれなら私でもなれるかも、と思った。その先生は口下手で暗く、授業もあまりうまくなかった。なんというか不思議な人だったが、基本的にいい人だったので私は結構好きだったが。

親は普通に公務員(微妙なところはあるが)と専業主婦だ。


では、何故私が教員免許取得を目指したのかというと、「教育」という行為と体系それ自体に興味があったからだ。

勉強やら常識やらを教えることにさしたる興味はなかった。

興味があったのはもっぱら「教育学」の方であった。

「教育とは何か」、「教育制度はどうあるべきか」、「教育の心理作用」、「教育の理念や教授法」といった理論的な部分に興味があった。

例えば先生ローマ皇帝のフリードリヒ二世は、「言葉を教わらなかった乳児はどんな言語を話すのか」という疑問を確かめるため実験を行ったといわれる。
因みにこの実験は言葉を一切与えず乳児を育てるという実験なのだが、一切の愛情を与えられなかった乳児は全員死亡したというオチがつく。

フリ2世ではないが、私ももっぱらこっち側の人間だった。

例えば道徳は社会通念の再生産過程であるという考えがあるが、
全く教育をしない環境で育った人間の価値観とは?
とか
常識を塗り替えるには、どのようなカリキュラムが最短ルートか?
など、
とても教師がしてはならないような思考実験をする方が楽しかった。


なので根本的に他の人とはモチベ―ションがずれていた。

「教師とは○○である」というキャッチフレーズを考えなさいという最終課題が出された授業があった。

○○には理想の教師を表すフレーズが入る。
例えば、カウンセラー、学者、指導者など自分の理想の教師像を一言で表す言葉を入れろというものだ。

私は「観測者」と書いた。

子供たちの成長をとにかく観察する。
子供に限らず、的を射ない発言というものは聞いてくれない。
人間をを知るためには、とにかく観察することが重要だ。
科学の基本である。
とにかく観察に徹して、要所要所で的確なアドバイスを送るのが理想の教師だ、と。

その授業の評価は5段階評価で3だった。

教職の授業は出席して、ある程度の水準のレポートを提出すれば最高評価を簡単にもらえた。この先生の授業も前に最高評価を得ていた。

にもかかわらず、3。

毎回出席したにもかかわらず3だった。

前提として、教師は子供たちに働きかけるものであるということだったらしい。自分からどんどん話しかけ、心を開いていくことが何よりも重要であると。心を閉ざした人間には何を言っても響かないから、根気強くこちらから働きかけるんだ、と。対して自分はそれを全く無視したレポートを書いてしまった。何も授業を聞いていなかったと取られるのも無理はないだろう。


こんな感じで授業を受ける中で、自分は教師になるべき人間ではないのかもと悟っていった。

ただ、一応ここまでやってきたし、免許だけは取っておこう。




こうして、諦めと憂鬱を抱えたまま教育実習に臨むのであった。



続く。



(2490文字)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?