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そもそも、人はなぜ家を買うのだろうか?

 中世から近世にかけての西洋社会の「商人」たち(非常に大雑把な枠組みですが)が、キリスト教社会で神の理念に反するとされてきた「利子」を、様々な神学的議論を背景に正当化していった歴史的過程については、説明すると非常に複雑で長い議論となるので、ここでは説明を省きますが、それと関連する、少し違う話をします。
(これらの議論について知りたい方は、大黒俊二『嘘と貪欲――西欧中世の商業・商人観』名古屋大学出版会2006年、を参照してください。)

 私が問題にしたいのは、「彼らは稼いだお金をどのように使ったのか」ということなのです。結論から言うと、彼らはお金を稼いだら、土地を買って「地主」になりました。商人としてのゴールというのは、地主だったわけです。貴族の株を買って領主になるという選択肢もここに含まれます。

 古典的なマルクス主義経済学では、「資本家」と「地主」は区別されています。19世紀の西欧社会においては、工場経営者である資本家と土地持ちの大貴族はしばしば利害関係が対立していたので(この対立が、イギリスにおける穀物法廃止(1846年)に至る政治的駆け引きの背景にあることは、イギリス史をかじったことのある人なら、有名な話だと思います。)、ある意味この区別は当然なのです。しかし、現代においては、地主階級も含めて「資本家」に含めることが広く一般に行われています。

 それはなぜなのかといえば、地主も経営者も、自分の手は煩わせずに人的資本や土地を使って不労所得を得ているから、ということで、大雑把に一括りにされてしまうからです。けれども、この「自分の手を煩わせずにお金を産み出す」という本質が、西洋社会において商人を地主にしてきた「引力」でもあるのです。

 持ち家派×賃貸派論争は、商人を地主に変えてきたこの「歴史の引力」を無視しているように私には思えてなりません。すべての人は、地主になりたがる。私に言わせれば、あらゆる意味において、一人の人間の資本主義ゲームにおける到達点は、地主になることです。そして多くの人は、それを認めることを拒む。

 土地というのは究極的には、価値を産み出す唯一の資産です。誰しもが、この星の重力を逃れては生きてゆくことはできない以上、すべての価値は究極的には土地に起因するものなのです。そして、その土地は有限であるから、希少なわけです。

 地主になることが到達点であるというのは、地主になることが幸せであることを意味しません。けれども、究極的な価値の源泉が土地であるということは、その所有者になることの優位性は、他のいかなる資産の所有と比較することを許さないことを意味します。その地主になる一歩は、土地を買うこと。持ち家を持つことは、そこに近い。

 サラリーマンが地主に近づく最も至近な方法が持ち家を買うことです。ですから、持ち家派×賃貸派論争にははじめから答えが出ているはずです。この論争は、なので不毛であるに違いない。けれど、少し別の角度からこの「論争」の所在を考えてみることはできます。

 そもそも、人は一生のうちで、賃貸物件だけ、持ち家だけ、に住み続けるわけではありません。産まれてから実家を出るまでは家族の持ち家に住んでいたという人が多いでしょうし、結婚するまでは賃貸だったけども結婚してからは家を買った、という人も多いでしょう。人はライフステージにおいて、その所有の形態を変えるもの、というのがまず大前提としてあります。

 ライフステージにおいて所有の形態が変わるのが当たり前なのに、なぜ「賃貸派」「持ち家派」と画然と区別された派閥が存在するようにこの問題が設定されているのか、をまず疑問に思わねばならないと思います。その上で、人は買いたい時期に家を買えるわけでも、また、望んで賃貸に住んでいる人ばかりではないことに思い至るべきなのです。これが「論争」になることで留飲を下げるのは具体的にどういった人たちなのか、を考えてみればいいのです。

 では、この論争にはいかなる意味があるのか、といえば、それは、人間一人のライフステージ「のみ」を考えてみた時には、持ち家か賃貸か、といった生活基盤の違いは、「誤差の範囲」に過ぎないということを明らかにするところにあるのではないでしょうか。

 「一人の人間の資本主義ゲームにおける到達点は、地主になることである。そして多くの人は、それを認めることを拒む」と、先ほど言いました。これは、ゲームの到達点に至ることは簡単であり、それを継続していくことがいかに困難か、ということを言いたかったのです。

 サラリーマンが35年ローンを組んで土地付きの戸建てを買ったとして、彼の孫やひ孫は、その土地を維持し続けることができるでしょうか?そこが、階級としての「地主」と、それ以外の労働者階級を分ける分水嶺なのです。

 つまり、サラリーマン一世代の単位で持ち家か賃貸かを論じることには殆ど意味がない、と私は思っています。問題にすべきなのは、彼が「階級」として、どうありたいか、ということなのです。彼の地主になる野望は、彼一代ではおそらく完成しません。彼が地主になるためには、彼一人の人生では通常足りないわけです。これが「階級差」というものです。

 彼一代で労働者階級を脱するためには、彼がサラリーマンであることをやめ、よりハイリスク・ハイリターンな人生を選択する必要性があるでしょう。彼がサラリーマンである限り、持ち家派であろうと賃貸派であろうと、言ってしまえば「誤差の範囲」です。

 「一人の人間の資本主義ゲームにおける到達点は、地主になることである。そして多くの人は、それを認めることを拒む。」のはなぜなのか、と言えば、多くの人にとって人生の成功とは、一人の労働者としての成功、を意味しているに過ぎないからです。これを、人生における「ミクロ史観」と仮に名付けておきます。

 ところが、孫やひ孫の世代まで射程に入れた時に、自分の人生を資産形成のためだけに犠牲に捧げるという考え方も成り立ち得る。これを「マクロ史観」と名付けておきますが、最近ではこのマクロ史観はほとんど支持されません。それは、少子高齢化、それから家族の単位が小さくなっていることが要因でしょう。

 そもそも、「個人」という単位を超えて資産設計をする、という態度自体が、現代人にとって受け入れがたいのは明らかです。けれども、その一方で、人生における生きがいを仕事以外の分野に見出そうとしている人は確実に増えている気がします。これは、個人主義的な生産史観の反動なのかもしれません。社会全体が個人主義的になると、人は、形として残るものを残したくなるのです。

 私一人が満足する人生でよい、という考え方は一方で、自分の人生で何か形を残したい、という欲求を強めることに繋がります。消費するだけでは、人は満足することができないのです。それが、先ほどの「ミクロ史観」の反動的側面でしょう。

 資本主義社会の大きな構造として、地主階級を中心としたマクロな経済史観があり、それと対立する労働者・核家族過程を中心としたミクロな経済史観が席捲しつつあるわけです。これが、社会や文化の価値観のレベルに影響して、個人の多様性を謳う理念を産み出しているとも言えるのではないでしょうか。賃貸・持ち家論争は、ミクロ史観内部での鍔迫り合いのようなものに、私には見えます。マクロなレベルまで見通した上での価値観の対立だとは、到底思えないのですよね。

 現代の核家族家庭には、家を維持していく、という発想が希薄ですし、「家」というのは、公式の法的枠組みの中では「ない」ことになっていますから、ある意味当然ではあるのですが、だからといって、マクロなレベルでの充足を求める価値意識が消えてなくなるわけではない、ということを、賃貸・持ち家論争は示しているように思うのです。

 マクロなレベルでの充足、を言い換えるなら、自分が死んだ後のこと、です。個人主義者、核家族が、社会のマジョリティを構成していくようになると、伝統的に「商人」を「地主」にしてきたあの「引力」が形を変えて、人々に作用するようになっていくのではないのでしょうか。私が常に歴史意識が大事だと言っているのは、そういう現象も含めてのことなのです。

 そもそも、人はなぜ家を買うのだろうか?

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