⑮【金森秀祥 先生】宝生流能楽師をもっと身近に。
11月の月浪能で「三輪」を勤められる金森秀祥先生。
約40年間師事していた金井章先生とのお話をたくさんお聞きしました。
秀祥先生にとって「つなぐ」とは?
――秀祥先生が「受け継いできたもの」は何ですか。
私の師匠というのが金井章(かないあきら)と申しまして、金井雄資さんのお父様です。この掛け軸は、金井先生が詠んだ俳句を軸装していただいたものなんですよ。
私が引っ越しをして稽古場を新しくするにあたり、先生の書をかけると、なんだか先生の目があるようで本気になって稽古できるのではないかと思いまして、雄資さんに「実は先生の書がほしいのですが。」と聞いてみましたところ、まだお軸にしていないものが一枚見つかりましたと連絡があったんです。それを掛け軸にしていただきました。
今では我が家の宝となったのですが、これが大変素晴らしい句でしてね。
「しかと聞く 月の老女の能のこと」
月の老女というと「姨捨」なんですよ。
金井先生が「姨捨」について近藤乾三先生から教えを受けたとき、「しかと聞いたぞ俺は!」という心境を俳句に書き残したんでしょうね。
役者は口伝多しですから、近藤先生から聞いたものは金井先生の血肉となってずっと伝わっていくわけです。それをこの句にしたということだと思います。いかにも能役者らしいですよね。
俳号は金井章の「あ」をとって「きら(綺羅)」です。キラキラ星の「きら」ですね。
箱に書いてある文字は金井雄資さんに書いてもらいました。親子で作っていただいたということになりましたね。
――普段は飾ってあるのですか。
いつもはしまっておいて、私が役をいただくたびに、この掛け軸を床の間に出しています。
つまり、うちで稽古しようかなと思ったとき、金井先生にお出ましいただくんですよ。「先生がここにいらっしゃるな。ちゃんと稽古に励もう。」と。これは私の「やる気スイッチ」なんです(笑)。先生のことを思いながら稽古をしています。
先生の教えや、在りし日の姿を思い浮かべて懐かしむとともに、自分を戒めなければと思っております。
――秀祥先生はご自身で俳句を詠まれることはおありですか。
私は詠むのはだめなんです。鑑賞するのが好きなんです。
なので、宝生流で俳句のサークルがあったときも、参加はお断りしました(笑)。
そのサークルでは、「宝生」という雑誌に会員のみなさんが句を寄稿されていました。金井先生が中心になって活動されていたんです。金井先生がお亡くなりになってもう18年になりますかね。中心だった方が亡くなられると、なかなかそういうのは続きませんよね。良い伝統だったので残念です。
――金井章先生から言われて大事にしている言葉やアドバイスを教えてください。
たくさんあります。私は金井章先生に教わった期間がだいたい40年くらいでした。なかなか40年同じ先生に教えていただくことはないかと思います。
私は富山県の高岡市出身でして、父が金井先生についていました。父は乾三先生に願い、若手の先生に稽古をつけて頂きたいということで金井先生をお招きしてお稽古が始まりました。私は6歳くらいから父親に教わっていたんですが、父親から「お前は金井先生につきなさい。」と言われまして、10歳より先生につくことになりました。
金井先生は女・子ども・素人・玄人関係なし。覚えるまでやらせる、という徹底した稽古でした。
私が小さいころは、1行目から始めて、3句までやってオウム返し。だいたい1か月に1ページずつ進めていく感じでした。1年経つと2~3番覚えていることになりますね。間違えると、同じところを必ず3回やる。できるまで稽古して頂きました。
もとより無本ですから先生の口元を見て真似て集中して謡っていました。
高校生になったときに先生の指導が急に変わりましたね。「お前、この曲の主人公の話、知ってるか?」と。私は何も調べていなかったので、全く知りませんでした。それで、先生が一から教えてくださるんだけれども、人でもモノでも、大事なのはその有り様ですよね。先生は本質を教えるのが巧でした。「これはここだろ!」というように、すごく拘るんですよね。
私が何回謡っても、先生が「声ではなく吟を使って調子を作りなさい。」と言って稽古が終わらないんですよ。そのうち、先生が立ち上がってあっちこっち行ったり。「勘所を自分で探せ。」とおっしゃってました。喉が枯れるくらい何度も稽古しました。
一曲一曲、先生との思い出がありますね。
例えば「熊坂」を稽古するときは、先生は裸で稽古しろとおっしゃって。もちろん、下はちゃんとズボン履いてますよ(笑)。先生が体の線をしっかり見るために裸稽古してました。金井先生に稽古してもらった人たちはみんなやったんじゃないかな。
稽古をしているときの先生は赤鬼みたいな顔をしていましたね。血圧も高かったですし(笑)。でも、終わると「はぁ~。」と息を抜きながら、「よしよし。」と言う。なんとなくそこで私は救われました。稽古自体は厳しいんだけれど、先生も緩まずに力を抜かないんですよね。
私は先生の書生みたいなもので、子どものころからお世話になっておりましたので、平気で先生がお茶を飲む居間まであがって行っておりました。
先生の奥さんが私にもお茶を入れてくださって、お茶を飲みながら先生が稽古の話をしてくれたりするんですよ。
私は、ほとんど、お稽古後の先生との話で能のことを勉強したような気がします。「お前ね、うまくやろうと思ったってできるわけはないんだよ。」とか。「お前ね、綺麗に謡おうと思ったって、綺麗になるわけないんだ。」とかブツブツおっしゃりながら、先生はお茶を飲んでらして。
先生は「今できなくていい」なんですよ。私はその当時30歳くらいでしたから、「お前が50歳過ぎてから迷わないように稽古してるんだ。」と。
50歳くらいになってまた稽古に行きますよね。そうしたら、「お前が70歳になっても迷わない稽古を今しているんだ。」と。「今のお前は下手なんだ。でも、今ここでこういう稽古をしておかないと、お前が迷うことになるから稽古する。」と言って、当時の私ではとうていできないような大曲である「卒都婆小町」とかを稽古してくださっていましたね。
先生は「種を植える」という表現をよくなさっていましたね。「今稽古しておかないと植えそびれる。」「今、種を植えとかないとお前は芽吹くことができない。」とか。
稽古を受けて感じるのが、指摘が的確だということです。武士は武士らしく、平家の公達は品よくやりなさい、ということを実にリアルに写実的に教えてくださる。それは型でも、謡でもそうです。
先生は、Who are you?「お前は誰だ?」ということを大事にされていました。一句謡い出すまでに、いかに自分の思い込みを調子に乗せることができるのかと。
――先生からの教えを今のお弟子さんたちにも教えていますか。
そうですね。今はお弟子さんに色々説明するんですよ。この曲はこうだからこういう気持ちで謡った方が良いですよ、なんて言って。丁寧な稽古をしているつもりなんです。
宝生流は下調を張って腹に気をため(中は強く外は柔らかに)謡うのが特徴でお弟子にも先生は本気で謡っていらっしゃいましたね。
私共はそれを言葉で説明してしまいますが、金井先生は実際に謡って聞かせるという稽古でした。「弟子稽古でも気を抜くな!」「自身の芸が固まらぬうちは弟子をとるな。他流を見るな。」ともよく言われました。芸が固まってもいないのに他流を見てしまうと影響を受けてしまうという戒めでしょうね。
宝生流は謡を大事にする流儀でしてね。型2~3割、あと謡。謡をしっかりやんなさいと言われました。
肉声というものの魅力といいますか、人はそれぞれ生まれながらにもらった楽器を持っているわけですよ。十人十色の調子が出せる。それが、ここ!という所に入ったときの面白さ。もうたまらんですね。自分の声を扱っているというか。私はまだできないんですが、声をうまく扱っている人は指揮者になったような気持ちじゃないかと思うんですよね。
見所で聴いているお客様に波紋が広がっていくような舞台を常に心掛けています。
私の師匠が勤めた「蝉丸」は、いきなり出てきて「いかに清貫。」と言った途端に、すぅーっと沁み込んでいくんですよ。そういうものを私はちゃんと聴いて教わっているのに、まだそこに行けないと。もっともっと励めということなんでしょう。毎日掛け軸を見ながら思いますね(笑)。
先生は本質にとてもうるさかったですね。人にもそう。芸にもそうでしたね。
――「人にも」とはどのようなことですか。
「人は流されやすいものだ!お前たちね、稽古して多少上手くなるじゃないか。賞状ほしいだろ。そんなばかなこと思っちゃいけないよ。あんなものはお前たちに力がつけば向こうから歩いてくるんだぞ。」「名声がほしいだの、あの人はできるよ、なんていう評判を気にして、右を向いたり左を向いたりするんじゃないよ。」とおっしゃってました。
私は「この親父は良いこと言うな。」と思いながらお茶飲んでましたけどね(笑)。
――秀祥先生はどのタイミングで能を本格的にやりたいと思われましたか。
私は子どものころから稽古をしていたんですが、嫌で嫌で逃げ回っていました。みんなそうですよ。
いよいよ高校に進学しないといけなくなったとき、「誰が能なんかやるもんか。」って思っていたんです。親父も困ったんでしょうね。金井先生に頼んだんだと思いますが、金井先生が珍しく褒めるんですよ。「おい、秀祥ね。そんなに向かないことないから東京来てもいいぞ。」って。そんなこと言う先生じゃないんですよ。だから、親父が言ったんだなと分かりました。
でも、決定的なのはお袋でした。「秀祥さん、あのね。あなたお能を続けるということは東京に行けるのよ。」と。富山県にいますとね、東京なんて綺羅星のごとく、先生の俳号のように、キラキラ光って聞こえるんですよ。「あ、ほんとだ!」と思って。私は本当に単純ですよ。「参ります!」ということで東京へ出てきて、先生に教わりながら、一から始まったわけです。
――東京で生活を始めてみていかがでしたか。
そりゃひどいもんでした。先生のそばに下宿しましてね。四畳半一間です。西日の当たる質素な部屋でした。
毎朝、先生のところへ行って舞台掃除をする。その後は先生のお稽古を「聴く」勉強。『旅の友』という全ての曲が載っている謡本がありまして、それを持って廊下にいました。
近藤先生の稽古と同じことを私にしてくださったようです。「お前は稽古場には入ってこないで廊下に控えて聴いてなさい。お茶を運ぶときだけ入ってきなさい。」と言われまして。
でも、一週間もすると可哀そうと思ったんでしょうね。中に入って聴いても良いことになって、お弟子さんたちとのやり取りを聞いたり、その曲にまつわる話を覚えたりしていました。先生は『謡曲大観』をよく読めとおっしゃいましたね。先生もそれを使って勉強なさったのだと思います。稽古場には必ず並んでありました。
私の稽古もしてくださいましたが、他のお弟子さんが来るとすぐやめる。お弟子さんが帰られたら、さっきの続きをやってみろと言ってくださって。
ありがたいことですよ。あるときは先生がハガキを書きながら「謡え。」とおっしゃって、私の謡を聴いていてくださいました。先生の合間の時間を私が全部埋めましたからね。
夕方になると私は下宿先に帰っていましたが、たまに帰るのをもじもじしていると、「今日は飯食っていけ。」と言ってくださいましてね。貧乏学生には大変有難かったです。
――今回の月浪能で「三輪」についてどのような印象をもたれましたか。
神楽を舞う女神の曲は他に「巻絹」や「龍田」等があります。この二曲は共に呼カケで幕内より登場いたします。「三輪」は次第の登場です。印象といえば、この「三輪」の次第は特別に大事に扱えと教えを受けました。三輪の里の静謐なる場面がこの次第で表されるということなのでしょう。
後シテでは引廻しが降ろされると神々しい光り輝く姿を見せながら、クセでは神でありながら人間との邪淫の営みを恥じ入る姿を表し、キリでは伊勢天照大神と三輪明神は一体分身と明かし終曲となります。人との営みを恥じ入りながらも美しく神々しさを失わぬ愛しき女神というのが私の「三輪」の印象です。
――先生は今まで「三輪」を勤めたことはおありですか。
はい、今回で2回目になります。最初は金井先生からたくさん教えを受けまして、書付にいっぱい書いてあります。
1回目は40代ちょっと手前で勤めました。そのときは物語とか全然考える暇がなかったですね。言われたことを守るだけ。例えば、「御幣は神が扱うものだから裏を見せないように扱いなさい。」とか。
今回は、その当時の書付を見てお稽古したり、今の私の師匠の髙橋章先生に教えていただいたりしています。
頭でっかちになってもね。「余計なことをするな。」と金井先生に言われそうですから。「下手は下手なりに懸命にやりなさい。」と。
(「三輪」の初演時の写真)
――演じるときに気をつけていることを教えてください。
橋がかりをまっすぐ歩けるときは良いんですよ。「なんだか遠いな。」と思ったら、まず具合が悪いですね。
メンタルは自分ではどうしようもないですよね。面をかけましたら「これで私は三輪明神になるんだ。」と思って覚悟を決めて出ていくんですが、「今日は足がでない。」「今日はなんか引っかかるな。」みたいに感じるときもあります。逆にするっと出ていけたときはなんか良いですね。
意識をしないことが大事です。「三輪」の謡を謡おうと思ってしまったらとんでもない。
先ほども申しましたように、自然に見所に波紋が広がるように謡ってみたいですね。
――「三輪」の中で好きな場面はおありですか。
神楽かな。心が華やぎます。舞台は狂気を見せる場所、まさに物狂いの極まった有様を美しく神々しく見所の皆様にお伝えできればと思っております。
――最後にお客様に向けてメッセージをお願いします。
月浪能というのは、中年以降のできた役者がやると能LIFEに書いてあるんですよ(笑)。私は今、67歳になるのですが、40歳くらいにやったときよりも、なんとなく体が衰えております。しかし、装束を着て、みなさまに老醜を感じさせるようではいけないと。
70歳を前に自分でも心掛けることがあるんです。背中が丸くなっていないか、少し気が落ちてないかとか、そのあたりをみなさまにはちゃんと見ていただいて、「先生だめですよ。年取ってますよ。」なんて言われないように。逆に「華やいでますよ。」と言われるように舞台に立っていきたい。あとは自然になんとかなるんじゃないかと思うんですよ。
日時:10月13日(水)、インタビュー場所:宝生能楽堂楽屋、撮影場所:宝生能楽堂楽屋、11月月浪能に向けて。
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金森秀祥 Kanamori Hidetoshi
シテ方宝生流能楽師
金森孝介(シテ方宝生流)の長男。1980年入門。18代宗家宝生英雄に師事。初舞台 仕舞「猩々」(1960年)。初シテ「岩船」(1976年)。「石橋」(1991年)、「道成寺」(1989年)、「乱」(1986年)、「翁」(2004年)を披演。
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――おまけ話
観劇が趣味だという秀祥先生。
特に歌舞伎がお好きだそうで、よく観に行かれているのだとか。