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⑦【髙橋亘 先生】宝生流能楽師をもっと身近に。

大切に残してきた「もの」。伝えられてきた「言葉」。そこに込められた想いを紹介していきます。


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妖怪やディズニー等のキャラクターが大好きな髙橋亘先生。
今回はお祖父様やお父様から受け継いだものだけでなく、亘先生が小学生のころの思い出の品も見せていただきました。5月五雲能では「鵜飼」のシテを勤められます。「鵜飼」の閻魔王に関する先生の解釈など、観劇がさらに面白くなるお話が盛りだくさんです。

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ーー亘先生が「受け継いできたもの」は何ですか。
これは「増女」と呼ばれている面です。宝生流専属能面師の鈴木慶雲先生という方がいまして、その先生から父が買ったものか譲り受けたものかは分からないですけど、慶雲先生が作られた面だということを聞いていています。

少し分かりづらいのですが、左目の瞼の下が欠けちゃったんですよ。父は、「節木増」とか「泣増」といった面にちなんで、「この面は目が欠けているから『目かけ増』だ。」と言ってました(笑)。薪能の際に実際にこれをかけたことがありますね。

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ーー面から慶雲先生らしさを感じることはありますか。
やっぱり宝生の専属の方でしたので、宝生流の能に合った特徴があると思うんですよね。宝生流にあって観世流にない面もありますし、他の流儀にはあるけど宝生流にない面もあります。「謡宝生舞観世」というくらいですから、観世流の方が動きが激しいんです。「増」という面は若い女性の顔を模しているんですけど、観世流になるとどこか顔がきつめになっていたり。

我々、能役者が一番大事にするのは面でして、首から上が一番大事とされています。面、その次は鬘、そして装束。天変地異などで火事があると、真っ先に面を運べと言われています。


ーーこちらの謡本は5月の五雲能に向けて使用されているものですか。
実は僕が子どものころに使っていた謡本なんです。これも譲り受けたものなんですけどね。
昔、亡き塚田光太郎さんから父が譲り受けて私の所へ来ました。
僕が幼少の頃、父親から稽古を受ける人は多かったのですが、僕の父はどうしても自分の子どもを教えるとなると感情的になるからいやだと言ったそうです。僕は、今、第一線で活躍されている金井雄資先生のお父様である金井章先生の所に、小学校の低学年のころから通っていました。金井章先生がとっても怖かったんですよ。この謡本は涙から唾まで全部染みわたっています。

子どもの頃は漢字が読めなかったのでふりがなをつけたり、節を分かりやすくするために折れ線グラフのようにして書いたりしていました。ここには、「ゆっくりさびしく」と書いてありますね(笑)。予習をして行かないと結構怒られたので、昔はレコードを聞きながら謡う練習をしていました。

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ーーあまり書き込みをされていないですね。
子どもながらに、どうやったら分かりやすく書けるかな、というのはいろいろ考えてました。今でもお弟子さんに教えていて、「ここはこうやって謡うんですよ。」と伝えると、文字で書いちゃう人がいるんですよ。「ここは上がる」「ここは下がる」というような。でも謡うときはそれを読んでいるうちにその箇所が過ぎちゃうので、「文字で書いちゃだめだよ。」とよく言うんです。書いてもすぐ分からなければ意味がないので。

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ーー「鵜飼」の謡本を2冊持って来ていただいていますが、違いはありますか。
こちらが今売られている一曲ずつの謡本で、こちらが子供の時に使っていた五番綴りの旧本なんです。見ての通り、五番綴りの本は絵も謡い方の説明も何も書いていないんですよ。しかも、1ページにつき7行あるのが、この旧謡本は6行なんですよね。字も大きいです。あと、節付が昔のは全部赤字という違いがあります。大正時代とか明治時代になると節がまったく書かれていなくて、お素人のお弟子さんには先生が朱墨で全部節付けをしていたそうです。今は全部黒の印刷なので、節が赤く印刷されているのは貴重ですよね。

今の謡本には親から伝わってきたもの、先生から伝わってきたもの、というのを全部書いています。僕は平成元年の勉強会で「鵜飼」を舞うことになったときに、父の型附けを写しまして、父は昭和41年の11月5日に祖父・髙橋進の附けを写したと書いています。公開で「鵜飼」を勤めるのは今回が初めてなんですけど、僕自身としては2回目になりますね。

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ーーお祖父様とお父様の附けに違いはありますか。
父が書くのは結構細かくて、大昔の田中幾之助先生とか野口兼資先生とか、今でいう神様みたいな方々がおられたんですけど、父の型附けを見ると、所々で、田中幾之助先生はこうおっしゃった、野口兼資先生はこうおっしゃった、と書いてあるんですよ。今回のインタビューでは何か「もの」をと言われましたが、僕にしてみれば「もの」よりも、「言われてきたこと」の方が多いですね。


ーー印象に残っている「言われてきたこと」は何ですか。
僕が一番大事にしているのは祖父の言葉で、父から聞いた話ですけど、「今、『能楽師』と言われているけど、我々は『能役者』だよ。」と。最近のとあるテレビドラマではお能を扱っていますが、あの中でもちゃんと自分のことを「能役者」と言っていたので関心しました。「能楽師」と言うと、弁護士などみたいに聞こえて、なんだか偉い職業のような感じがします。我々は「能役者」だから、来てくれるお客様に気に入られなきゃだめなんですよね。自分のためにだとか、先生に気に入られるように、っていう人も中にはいますが、そうではなくて、お客様が観に来られて「良いね。」「面白いね。」と言ってくださったら一番嬉しいです。


ーーこのお祖父様のお写真はどちらで撮影されましたか。
祖父の家の前で撮ったものです。紋付を着ているところを見ると、何かの賞を取ったときに出かける前の写真だと思うんですが。舞台に出るときの顔じゃないんですよ(笑)。すごくほのぼのとしていて。

祖父はあまり舞台の役を引きずらない人でして、舞台から帰ってくると、お芝居でも「抜ける」と言いますけど、ふっと抜くのが上手なんですよね。さっきまで舞台で妖艶な役をやっていたのに、帰ってくると裸同然になっちゃってというような(笑)。切り替えが早かったみたいで、周りからは、「さっきまで役をやっていた人には見えない。」と良く言われていたそうです。

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ーー亘先生はお祖父様のようにすぐ役から抜けるタイプですか。
僕は最初の頃はけしからん話ですけど、最後の留拍子を踏んで勤め終わって、「はあ、終わった、良かった。」と思って橋掛かりから幕へ入ってたんですよ。そうしましたら、亡くなった近藤乾之助先生の奥様から「亘ちゃん、幕へ入るとき、橋掛かりでほっとしたでしょ。」と言われたんです。「うわ、ばれてるー!」って思いましたね(笑)。

私は歌舞伎もよく観に行くんですけど、ちょうどその頃に今の市川右團次さんの舞台を観に行きまして、右團次さんが花道から幕へ入って行くときに気合を入れ直し、「くっ!」っとなって入って行くところを見て、こういうことなんだ!と気づきました。橋掛かりを通って帰るんじゃなくて、橋掛かりへ行って、またあの世へ帰っていく、また自分の郷里へ帰る、ということだったんですよね。幕で終わりではなくて、幕の奥にはまだ続きがあるのだと分かりました。

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(市川右團次丈と髙橋亘先生)

それ以降は橋掛かりへ来ても気を抜くことはありません。「鵜飼」では閻魔王が自分の役目を果たしてほっとして帰っていくのではなくて、「さて次はどんなやつが来るんだ。」と思いながら橋掛かりを通り抜けるようにしています。

能の場合は決められたことをやらないといけないんですけど、その中でいろいろな考えがあって、自由なんですよ。ここはこういう気持ちだからこう演じなさい、という事細かなことまでは決められていないんです。

例えば「黒塚」の鬼婆の場合、薪を取りに出て行ったのは、山伏たちを油断させるためだとか、隙を狙って食ってやろう、というのが一般的な考えではありますが、近藤乾三先生は違ったんです。先生曰く「いや、あの鬼婆はね、本当にもてなすために薪を取りに行ったんだ。」と。自分の正体が分かってしまうと、せっかくもてなそうと思っていた気持ちが踏みにじられるから。結局、山伏たちは中を見ちゃって、鬼婆が怒って鬼の姿となって出てくるわけですが、鬼婆が戻ってきたときは本当に薪を背負って出てくるんです。近藤乾三先生がおっしゃったように、本当にもてなす気持ちがあったのかもしれませんよね。

決まり事はありますが、その人なりの考え方が自由で、いろいろな想像や解釈ができるから、能は650年も続いてきたのかなと思います。


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ーー今回「鵜飼」を勤めるにあたって、曲のことを調べたりされましたか。
最初の頃は訳も分からずとにかく間違えないようにと心掛けていましたが、今は「鵜飼」に限らずこの曲は何を伝えているのか、背景に何があるのか考えるようになりました。

浄玻璃の鏡というのが閻魔様の後ろにあって、来た人が現世で行ってきたことを映し出すことができる。浄玻璃の鏡は「野守」という曲にも出てきます。「鵜飼」ではこの鏡は出てこなくて、閻魔帳を表す金紙と鉄札というのが出てくるんですよ。「金紙を汚すこともなく」金紙には何も書かれていない一方で、「されば鉄札数を尽くし」つまりは、鉄札には鵜飼がした悪いことがいっぱい書いてある。

鵜飼は幽霊となって現れたときに、お坊さんを泊めてもてなしました。閻魔王は、「お前は亡くなってはいたけども最後に良い行いをしたのだから、極楽へ連れていくのが私の役目だ。」と言うわけですよね。

閻魔様というと怖い形相のイメージですけど、そうではなくて、謡にも出てきますが、地獄は遠くにある物ではなくあなたたちのすぐ近くにあるんだよと。「ぼーっと生きてんじゃねえよ。」と伝えています(笑)。閻魔様はお地蔵様となって町のあちこちにいて、人間たちを常に見ています。悪いことをしてもその後が大事で、良いことをしたなら許す。閻魔様はただ裁きを与えるのではなくて、「諭す」役割なのだと思いますね。

平成元年の初演のときと、今回の5月五雲能では、かなり「鵜飼」のイメージが変わりました。前シテが鵜飼の役で、後シテが閻魔王ですが、閻魔王になると早笛で出てきて、ものすごく荒々しい感じになるんですけど、今回はもうちょっと優しさが入ってもいいかなと思っています。弱くなっちゃうといけませんが。

「羽衣」ってすごくポピュラーな曲がありまして、三川泉先生のような方々は「羽衣」を10回くらい演じているんです。ところが、晩年に三川先生が「『羽衣』は難しいよ。」とおっしゃっていました。何度演じても結論が出ない。「鵜飼」も「羽衣」と同じく難しい曲だなと思います。古い作品になればなるほど、自由に解釈ができるようになっていますから、それをどのように組み立てるか、っていうのが一つの面白味でもありますよね。


ーー「鵜飼」で注目して観ていただきたい所を教えてください。
前半に「鵜之段」という鵜を使う場面がございます。我々の中で、「段物」はものすごく難しく、特別扱いしているものなんですよね。「鵜之段」では、自分のやってきた所業を舞で見せるのですが、本当に鵜を使っているわけではないので、表現の仕方がものすごく難しいんです。鵜を放して、魚をくわえさせて、吐き出させて、魚を捕るという流れを全て扇と謡で表さないといけないので。そこが前半の見どころですね。

あとは、鵜飼が亡くなった有様を聞かせる場面です。自分が鵜飼だとまだ明かしていないときに「なぜ鵜飼が殺されたのか。」と聞かれて説明をして、「実は私がその鵜飼です。」と明かすところがあるんです。その語り口調もぜひ注目して観ていただきたいですね。
後半は閻魔王の荒々しさと優しさをうまく表現できたらいいなと思います。

もう一つ、見どころとは違いますが、隠れた話というのがありまして、この曲に出てくる僧侶についてです。「これは安房の清澄より出でたる僧にて候」という謡がありまして、清澄のお坊さんなのね、と思っていましたが、とある書物によるとどうも日蓮上人らしいんです。確かに安房の清澄に日蓮上人がいた事実、そして法華経を唱えていることも含めて日蓮上人のはずなのですが、名乗らないんですよね。おそらく、法華経のありがたみ、それから仏教の教え、悪いことをしていっても何か一つ良いことをすれば極楽に行けるんだよと伝えている曲なので、そのことに重点を置くために、あえて名乗らないんだと思います。ここで日蓮上人だと明かしちゃうと、日蓮上人に重点が置かれてしまいますので。その加減が本当にすごいなと思います。

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ーー亘先生は音声解説を個人的に制作されていますが、始めたきっかけは何ですか。
文章に書かれている解説はたくさんあるんですよ。分かりやすくするために漫画で描かれていたり。でも、音声解説はほとんどなかったと思うんです。例えば、お客様の中には目の見えない方など、聴くだけで来る方もいらっしゃいます。何かできないかなと思いまして、いろいろな人に頼んで音声解説を自分で作り始めました。

ご縁で小劇場で活躍している役者さんと知り合うきっかけがありました。その方たちにとって能は自分達のルーツ、特別なんですよ。大昔から続いている舞台ということで、ぜひ一緒にやりたいと言っていただきました。私よりも年上ですが、私の五十周年記念能にも出演して頂いた女優の水沢有美さんや、発足当時の団員には三島由紀夫氏もいた劇団NLT代表の川端槇二さん、今回「鵜飼」の音声解説の語りをしてくださった松山莉央さん。僕が舞台で勤める曲の音声解説をその度に制作していまして、その曲に合わせた適切な人選を考えています。又今年の10月には「六浦」を勤めるのですが、父が最後の舞台で勤めた曲でもあるので思い入れの強い曲ですね。


ーー今日はお父様とお写真も持って来ていただきましたので、ぜひお父様とのエピソードも教えてください。
父からは言葉で伝えられていることの方が多かったですよね。父の場合は、芸に関してはあまりないんですが、電車は降りる人が先だとか、人として当たり前のことにとっても厳しかったですね。

また、父はシテとかツレの役よりも後見にものすごくうるさかったんです。後見は目立っちゃいけないと言われました。何が起きても冷静に対処しなければいけない。役に比べて、謡を謡わなくていいから後見でよかったと言う人がたまにいますが、僕は後見をやるときが一番緊張しますね。

父が書いた後見の附けには、どこからなにを取りに行くなど事細かに書いてありまして。例えば「田中先生曰く、~から取りに行くのが良ろし」といった感じで。「目立たぬよし。」と書いてあったりもします。


ーーシテを勤めるときはどのようなことを心がけていますか。
僕は子どものときは金井章先生のもとで厳しい稽古を受けて、高校を卒業して、内弟子に入るわけですよ。宝生英照先生が面倒を見てくださることになりまして。藝大の別科にいたときには佐野萌先生から教えを受けて、祖父からも短い期間でしたが稽古をつけてもらい、伯父の髙橋章から見てもらうことにもなりました。いろいろな人から教えを受けて、教わったことは絶対守っていこうと、壊さないでいこうと。それを心がけてやっていますよね。

子どものころはどんなに熱が出ても、子方には代わりがいないから勤めないといけません。僕も地方に行ったときに高熱が出て、でもなんとか無事に舞台を勤めあげました。
今、ご一緒している小劇場の役者さんたちは、自分でアルバイトや仕事をして、チケットが売れ残ったら自分でお金を払って、という生活をしています。五十周年記念能にも出演して音声解説「田村」を担当してくれた役者さんの藍追悠さん、身体が決して丈夫な方ではなく、ときどきふらふらになることがあるんです。でも、どんなに具合が悪くても舞台を勤めあげるんですよ。それが僕の子どものころとすごく重なりまして。今、その人にすごく勇気づけられていますね。「弱音を吐いていたらいけないな。」と。若い人たちに助けられています。

今の宝生会にも若い人たちがいますけど、進んで声をかけるようにしています。父がそうでしたから。父が来ると楽屋がすごく明るくなるんです。冗談を言ったりして。先人の言葉ってすごく大事だと思うので、僕も若い人たちに伝えていきたいと思います。


ーー最後にお客様にメッセージをお願いします。
舞台をご覧になって「面白かったね。」と言われるのが僕ら役者は一番嬉しいです。ここを見てくださいというよりも、何か感じてもらえれば思います。

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日時:4月14日(水)、インタビュー場所:宝生能楽堂楽屋、撮影場所:宝生能楽堂楽屋、5月五雲能に向けて。

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髙橋亘 Takahashi Wataru
宝生流シテ方能楽師
髙橋勇の長男。1969年入門。18代宗家宝生英雄、19代宗家宝生英照に師事。初舞台「花筐」(1969年)。初シテ「経政」(1988年)。「石橋」(1997年)、「道成寺」(2000年)、「乱」(1999年)、「翁」(2010年)を披演。

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