机とインクの思い出

 10歳の頃マンガ家を志した。年齢が二桁になったばかりの頃合い、周りとは何かと衝突していた。何かと面白くない日々に、イラストやマンガを描くのは大切な気分転換になった。

 漫画雑誌に載っていた通販から初心者向けセットを取り寄せ、道具一式を机に広げた。インク壺のフタを開けると、真っ黒な液体がたっぷり溜まっている。お習字の墨とは違う。これがイラスト用のインクなんだ。マンガでしか見たことのない道具が、目の前にある。そんな興奮に打ち震えた。

 さっそくペン軸にペンをセット。インク壺に入れた。とっぷりと、粘っこい液体に浸した独特の感触。紙に線を描く瞬間が楽しみで、サッと引き抜いた。

 ペン先がひっかかった。

 インク壺は盛大に倒れた。

 ぎゃああああ、という私の叫び声が家中に響いた。

 広がっていく漆黒は、絶望そのものの黒だった。
あれだけ興奮した黒が、今や悪の象徴でしかない。ビニール製の下敷きを超えて、明るい茶色の机本体にまで浸食していく。慌てて拭いても、黒はべったりとこびりついて剥がれない。

 初めて机を目にした時の事が思い出された。ぴかぴかでつやつやで、こんな机を買ってもらえるのは幸せだなぁ……そう考えて、まだ4年しか経ってないのに。たった1回のミスでもう汚れてしまうのか。おまけに小さなキズも浮き上がっていく。もう取り返しは付かない。あのぴかぴかは消え、この黒という失敗を一生引き摺って生きていくんだ。

 泣き喚く私を見かねたのか、母が部屋に入ってきた。母は真っ黒に染まった机を前にして、怒るでもなく、ちょっと待っててな、となんでもないような風で部屋を出た。私は怒られなかったことよりも、母がけろっとしているのに驚いた。墨の汚れが取れないのは、お習字の時間で散々思い知らされている。このインクの海をどうにかする方法なんてあるのか。

 母が持ってきたのは、古い歯ブラシと歯磨き粉だった。インクをあらかた拭き取り、歯ブラシにちょっと粉をつけると、まるで歯を磨くようにゴシゴシこすり始めた。

「インクの汚れは、歯磨き粉で落とせるねんで」

 そんなの知らなかった。母は得意げにインク汚れをこすっていく。水で湿らせたティッシュで拭き取ると、9割方元のきれいな机が戻っていた。キズの合間についたインクだけは取れなかったけれど、きれいなブラウンが戻ってきただけで十分だった。

 お母さんって、すごいんだ。

「どうや、きれいになったやろ」
 私はお礼を言った。久し振りに口にした「ありがとう」だった。

 次の日から、インクを使うのは止めた。イラストにはボールペンを使うことにした。もうあんなことは嫌だ。 けれど、もしものことがあったらお母さんを頼ろう。

 机についた黒いキズを見る度に、このことを思い出す。

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