今回は、「真理の言葉」第11章を考察する。
父である神アラハ、神の子である人間
ダスカロスは大勢いたキリストの弟子のひとりで、当時はヤスナイと呼ばれていた。
ダスカロスの古代エジプト時代の転生については、下記で少し触れている。
エッセネ派は慈しみ深い神 “アラハ” を信仰していた人々で、アラハ(Alaha)とは古代エジプト語とアラム語に由来し、“Al” は神、“la” は神の 意志の喜び、“ha” は神の 神聖なる計画 と意思の喜びを意味している。キリストは教えを説く際、「わたしの最愛なる者たち、天なる父であるアラハから生まれた子たちよ」と呼びかけた……とダスカロスは語る。
エッセネ派の人々は、報復的な神 “ヤハウェ” を信仰するユダヤ人を敵視しなかった。しかし、ユダヤ人はエッセネ派を異端者と見做し、忌み嫌って残忍な仕打ちを繰り返していた。なので、愛の神 “アラハ” の教えを説くジョシュア・イマヌエルが民衆から慕われ、メシア として崇敬されていくことに危機感を抱き、彼を捉えて “磔刑” に処した……が、それは悲劇や災難ではなく、絶対無眼の存在 の 神聖なる計画 に従って成就されたものなのだ。
「あなた方の体を殺そうとする者たちを恐れる必要はない」というキリストの言葉は真理である……しかし、その言葉が無知な人々の支配欲や暴力性、陶酔的な狂信や肉体の過小評価に繋がった側面も否めない。もちろん、無残な「屍の山」をつくることがキリストの望みでは断じてない。彼が自らの言葉と行ないによって証明したのは「霊-エゴー魂」の不滅性であり、“超自己”意識 の覚醒であり、人間が持ち得る神性だ。しかし、真理の光を受け入れる準備ができてない人々はそれを拒絶し、闇のベールに覆われ続けることを選んだ。
ヨハネ は肉体を非物質化して帰天したが、彼以外の12使徒の死は殉教という名の惨殺だった、、、という件については、12使徒の人柄がわかる キートンさんの “キリスト教講座” の記事 ↓ でご覧ください。
当時の イスラエル に比べると、現代日本はとてもよい場所といえる。考え方が違うだけで処刑されたり、異端者と罵られることもなく、のびのびと自由に真理を学べるのだから……(*^^)v
神の“神殿”としての肉体、アカシック・レコード、神と共に生きる
物質界(3次元)へのさいしょの転生を、順を追って説明しよう。
まずは 基本元素の大天使たち と七つの階級の 大天使たち が、神の 意志の喜び と共振し、形態のない マインド超素材 から 人間の形態(人間のイデア)を創造する。神から放射された 聖なるモナド の1条の光(「霊-エゴ」)が人間のイデアを通り抜けると、「自己認識-魂」となる。その際、メタトロン が人間の エゴ と一体化して守護大天使となり、再び人間の魂が 神と一体化 するまで離れることなくつき添ってくれる。さらに大天使たちは、分離の次元 における 人間の3つの神聖なる体 ……すなわち「ノエティカル体とそのエーテル・ダブル」、「サイキカル体とそのエーテル・ダブル」、「肉体とそのエーテル・ダブル」を創造し、その中に「霊-エゴ-魂」が宿ることで、物質界(3次元)にひとりの人間が誕生する。
以上の流れを、シンボル・オブ・ライフ で示したのが下図。
「自己認識-魂」が表現する「パーソナリティーとしての自己」と「3つの体」は、分離の次元 の法則(実現性の循環 や 蓋然性の循環 など)に従って変化し、死すべき運命にある。しかし「霊-エゴ」と、それが形態化した「自己認識-魂」は不死……つまり神であるが、「霊-エゴとしての自己」は “人間の形態を持たない神” で、「魂-エゴとしての自己」は “人間の形態を持った神” ……というように、人間の自己性 は次元によって異なる表現を有する。
肉体の細胞は約7年で入れ替わるが、パーソナリティーは入れ替わらない。ということは、「じぶんは肉体ではなくパーソナリティーだ」といえなくもない……が、「パーソナリティーとしての自己」もまた、休みなく変化する欲望・感情・思考(エレメンタル)が形づくるものゆえ、真実の自己とはいい難い。では、どうやって絶えず変化し、死すべきものの中から真実の自己をみつけだすのかというと、“思考” という マインド・バイタリティー を適切に使うのだ。内省 と 瞑想 によって頑迷な エゴイズム の殻を破り、“自己”意識 が目覚めれば、人間の神聖なる本質である “観察力” と “意志の力” が発揮されて、真の理解へと至る。
内側で輝く不滅の “生命の光” に気づき、じぶんが神であると悟ることは、現在のパーソナリティー を犠牲にして “無” になることではない。経験(エレメンタル)のすべては 宇宙メモリー(アカシック・レコード)に残るのだ。“自己”意識を開花させたひとは、自由にその記録を読むことができる。
“過去世の忘却” は、神聖なる神の慈悲 だ。
過去世でつくった「人-悪魔」(エゴイズム)を制御できないひとが過去世を思い出すのは、アルコール依存症を克服したいひとを酒場に連れ出すようなものである。「人-悪魔」をすべて非活性化できれば、どんな過去世に アチューンメント しても影響を受けることはなくなる……が、ダスカロスがいう通り、過去世にアチューンメントするより、絶対無限の存在や大天使たちにアチューンメントするのが建設的といえる。
天地創造、7つの天国
神の放つ “生命の光” が、存在の世界 である7つの天国を創造している。
「物質界が天国?」……と疑問に思われるかもしれないが、いかなる次元においても天国は常にわたし達の中にある。
で、各次元の エーテル・ダブル ……次元と次元をつなぎ、振動数のギャップを調整する “境界領域” が、独立して天国にカウントされていることに注目していただきたい。じつは今回、この分類に気づいたことによって、「タロットの考察 0~30」で提示していた問題点 ↓ が解消した (*^^)v
というわけで、数字式フォーカスレベル における “境界領域” の呼称を、以下のように改めることにした。
ノエティック・ステート(6次元)は数字の概念を超えた次元……という解釈で、ひとまず一件落着 (*´ω`*ノノ☆パチパチパチ
使徒フィリポの体外離脱、物質化と非物質化の能力
「真理の言葉」第11章に、12使徒のフィリポ の逸話が紹介されている。
「これ以外の記録」とは、使徒言行録8章 のこと。12使徒のフィリポと 使徒言行録のフィリポ は別人とされているが、ダスカロスの話からすると同一人物。で、フィリポは 体外離脱(自己意識を拡張)して、エルサレムから何十キロメートルも離れたエジプト国境で肉体を物質化(創造エーテル を使用)し、エチオピア女王(エチオピアン・ファミリー?)に仕える官吏に洗礼を授け、その後肉体を非物質化して別の場所(アゾト)に行った……ということから、フィリポが ヤコブの梯子 でいうところの第6段階以上の意識レベルに達していたとわかる。
フィリポはなかなかどうして、大したひとだったのだ……で、彼の名前の由来が「馬を愛する者」の ピリッポス というのが嬉しい。なぜなら、わたしも馬を愛していて、キリストの生まれた 肥沃な三日月地帯の縁者 だからだ。
一足飛びにフィリポのようにはなれないが、誰でも夢で体外離脱(自己意識を拡張)している。ただし、「“自己”意識 を持った体外離脱」や「創造エーテル の使用」は、エゴイズムの克服ができなければ無理だ。
体外離脱とアチューンメントは「意識の第5~第6段階」、創造エーテル利用とアットワンメントは「意識の第6~第7段階」の属性で、7つの天国でいうと「意識の第5段階」は第5の天国、「意識の第6~第7段階」は第6~第7の天国へのシフトを可能にする。
神の子として、神と共に生きよう!