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ヘタレのオバサンが、ほぼ無一文から移住生活を始めた経緯
さいたま市在住だったホシノが広島県北部のまち、安芸高田(あきたかた)市に引っ越し3週間が経ちました。まずは「よくやったよ」という労いも込めて移住実現に至った経緯をまとめてみました。
2024年5月18日、わたしは片道切符で新幹線に乗りました。行き先は広島。引っ越しのお供は、『カウボーイ・サマー 8000エイカーの仕事場で』 前田将多 著 旅と思索社。
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この本は4月の終わり、スナワチポップアップストアにて、前田さんご本人にサイン頂き購入したものです。“cowboy up!” とも書かれていました。その時は何の意味かわからないまま受け取りました。
ひと夏をカナダの牧場でカウボーイとして過ごした経験を通じて、カウボーイのあり方に迫ったドキュメンタリー。
読み始めて驚いたのは、その記録の精緻さです。取材も目的とはいえ、慣れない肉体労働でくたびれ切っているところで記録を続けるのは簡単ではなかったはずです。
淡々として精緻な行動記録の間に、戦力になれない無力感や、ある種の荒っぽさへの戸惑い、自分の仕事が目に見える具体的なモノとして数えられる嬉しさなど前田さんの細やかな感受性が表現されています。
読んでいるうちに、東京発の新幹線は、あっという間に広島へ。
「ついに来たよ、広島!」
1.最初は逃げたい一心だった
わたしは2021年7月に新型コロナに感染し、後遺症と付き合ってきました。再感染を恐れて人混みを避ける生活を続けるうち、「どうせなら人の少ないところに住めばいいんじゃ…?」と思うようになりました。東日本大震災を通じて都市の脆弱性を痛いほど感じたことも遠因となっています。
そんな理由はあっても、結局その当時は逃げたい一心でした。人間関係、終わりのない家事、安らげない環境…そういうもの全てから離れたかった。
とはいえ、体調が悪い状態では何もできません。具体的に動いたのは翌年、2022年4月ごろからです。この時は家族(夫と息子二人)には内緒にしていました。
2.移住先は割とすんなり見つかった
行くなら広島って決めていました。
日本全国どこでもいいような気もしますけど、どこでもいいと言われると、かえって決められないものです。
さいたまから都内に行くのは身体がまだしんどい時期でしたが、銀座の交通会館にある「ひろしま暮らしサポートセンター」を訪ねます。担当は着任したばかりのIさんでした。ひとりっ子という共通点から親との距離感を共感していただけて心強かったです。
高齢の実母が島根西部で暮らしているので何かあったときに通えること。広島市内は学生時代住んでいて好きな街だったこと。この2つの街に行き来できる範囲の田舎(静かで空気が良くて水がきれいで自然が豊か)ということで、安芸高田市が候補にあがりました。
そのあと5月には療養目的で2泊(たかみや湯の森・福寿荘)。近隣を散歩するほかはほぼ部屋で横になっていましたけれど、野鳥の声が聞こえる静かなところでした。往復の道すがらに見る民家の眺めも密集しておらずゆったりとしていて、住むならこんな場所がいいとぼんやり感じていました。
広島県は、沿岸地域や島への移住が人気です。山間部は交通の便も悪いし冬は寒いのであまり希望者がいないそうなのです。サポートセンターの方にも両方見ることを勧められ、広島市内から行きやすい江田島あたりにも行きました。瀬戸内の景色は美しいけれどピンとこなかったので、改めて山間部に決めました。(移住を希望される方は両方見られることをお勧めします)
2022年の11月には安芸高田市内の民宿に5泊して、移住コーディネーターのKさんに方々案内していただきました。民宿のHさんはじめ、お目にかかったみなさんが、肩書きではなくご自身として自分らしく暮らしておられました。
コーディネーターのKさんには「ホシノさんは都会に暮らしているのに流れている時間がゆっくり」と言われました。療養で世捨て人みたいな暮らしでしたので妙に納得もしました。滞在期間中は動いている割に体調も良く、空気や水のきれいな場所で暮らしたいと改めて感じました。
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広島市内であっても店員さんはとても親切で、ちょっとした会話が楽しめます。広島はひとの優しさを感じられるところ。住みたい気持ちが加速していきます。
3.事態はなかなか動かなかった
2023年の初めには、家族に移住の意思を打ち明けます。すごく勇気が要りました。家族と離れ、一人暮らしをすると言うのですから。でも思い切って話してとてもスッキリしました。
ところがそこから足踏みを続けます…
体調が思うようにならず、引っ越しに必要な体力がない
地域おこし協力隊のフリーミッションでの募集がない
結局2023年は移住に関して何もせずに終わったのです。
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/jichi_gyousei/c-gyousei/02gyosei08_03000066.html
4.移住資金もなくなっていった
移住資金として150万円ほどを考えていたのですが、わたしが働けなくなった頃は息子たちの大学進学と時期が重なりました。
療養費のほか、息子の引っ越しや課外講座代など大きな出費があるごとに移住資金は削られ、気づけば30万円ほどになっていました。家族のための出費ですから後悔は一つもありません。でもこれでは引越しもままなりません。
当分移住は保留にせざるを得ない。
まずは今住んでいるここで元気になって、働いて、お金を貯めて…長い道のりに気が遠くなりました。元気になるための移住でもあったからです。
5.そんな折、母の遠距離介護が始まった
移住を考え始めた時は母もまだ元気で一人暮らしをしていました。しかし2023年の秋に骨折で入院してからは、一人っ子のわたしは島根に帰省することが格段に増えました。一度の帰省で1週間近くを郷里で過ごします。体力を考えて余裕のある日程を組む必要があったのです。
母のお世話というより先々の生活場所、介護サービスの利用など、打ち合わせや見学、また生活の場が変わることに従って衣類や日用品の用意や移動もあり、余裕を持った日程もギチギチに。わたし自身が療養を続ける中でかなりの負担が心身にかかりました。
交通費や宿泊費は母が出してくれましたが、母が備えていたお金がこういうところで大きく削られていくことも精神的にきつかったです。
6.本来のわたしでいい
2023年は移住の具体的な動きはなかったものの、療養なおかつ引きこもっていたわたしが、ひとの中に戻っていくターニングポイントの年でした。
4月には対話のコミュニティに入会、ここで多くの方と知り合うことができました。在籍した半年ほどの間に、自分のブレーキとなった思い込みなどに気づくことが多く、人への恐怖感が徐々に少なくなっていきました。
その後パーソナル編集者のみずのさんに文章の届け方を学び、大人相談会での心優しき猛者noter さんたちとの出会いにつながるのです。
療養中は自分の大切にしたいことは何かを探ってきましたが、この2023年は自分のイメージが他者からの指摘によって大きく変わりはじめた年でした。自分の魅力は他者がいてはじめてクッキリしてくるし、活かすことができるのですね。
2023年は、「本来の自分とは何か、本来のわたしが生きる道はどこか」を探った年だったと今は思います。
そんな活動をしながら、本当にわたしは移住したいのかも問い直していきました。
7.当面の仕事については二転三転した
移住すると決めたものの、現地での仕事については迷走と言って良いほど二転三転しました。
2022年の時点では、建築士として空き家改修、まちづくりに関わりたいと思っていました。ですが建築の仕事は金額が大きいだけに信頼や実績が物を言います。そこで地域おこし協力隊の制度を利用したいと考えていました。
協力隊員に選ばれれば、当面の生活の心配がなくなります。そこから自分の事業にスムーズに移行できるのではと考えました。しかし2023年度の安芸高田市の協力隊では適合するミッションがなく応募を見送りました。体調の不安もまだまだあったので時期ではなかったのでしょう。
2023年には、仕事に関して天地がひっくり返る出来事が起こります。ビジネスコーチに「ノートの書き方を教えてみませんか」と勧められたのです。
何度やっても続かなかった建築のブログ。4月に始めたnoteの記事は仕事ではなくプライベートなものでした。これを「ここ3年の自分の変化」に振り切ったら継続して書けるようになりました。ノートに手書きすることを通じて、過去の捉え方が変わり、人生が徐々に変わっていったことをそのまま記事にしていきました。
そして試しに「ノート術についての半年間のモニター講座」を組み立ててやってみました。いろんなことがあったけれど、とにかく0が1になりました。対人支援へ道がつながっているようにも感じました。
2024年度の安芸高田市地域おこし協力隊にはフリーミッションの応募枠がありましたので、「安芸高田でひとの願いを聴き続ける」と題して今年の一月、応募しました。
ここで、書類選考には通ったものの面接で不採用になってしまいます。これはあくまで想像ですが、町の困りごとをストレートに解決する事業ではなかったから採用に至らなかったのだと思います。
横道にそれますが、面接は最も寒い2月に行われました。泊めてもらったのは今住んでいるところです。比較的穏やかな日でしたが部屋の温度が朝は5℃近くになり、灯油のファンヒーター一台では温まらず、エアコンも稼働…古い民家の寒さを体感しました。厳しい時期に移住先を訪れたのは収穫でした。
本題に戻ります。わたしは他の移住方法を探り始めました。とにかく食べていかなければなりません。そして療養で体力はよわよわです。
薬剤師の資格は持っていましたが、はじめは気乗りしませんでした。「歳だけとって未経験で、使う方もやりにくいよね」「時給に見合うだけの働きができるのか不安」
ですが求人を探すとそれなりにあるのです。県北では薬剤師が足りていなくて時給も都市部と同じです。未経験でも可。
短時間勤務なら体の負担も減らせます。余裕があれば自分の活動もできるかもしれません。ライスワークのつもりで探し始めたけど、病院や薬局の薬剤師は対人支援職でもあります。
微かな光が差しました。
そこからさらに紆余曲折(これだけでひと記事書けそう)があり、隣町の病院に勤務することが決まりました。経験がないことは正直に話しています。新人薬剤師ですが現場に出れば関係ありません。一から学び直しつつ求められる責任を果たしていきたいと思います。
今までやってきた建築はどうするの? 個人の事業体として事務所は移転し残します。ものづくりはできなくてもゆたかな暮らしにつながる講座など、ノート術含め何かやれる余地を残したいからです。(しばらくの間は薬剤師の仕事を優先します)
8.なぜ移住を急いだのか
地域おこし協力隊以外の生計の立て方で移住に踏み切ったのには理由がありました。
母の具合が安定せず、2024年の4月には再び転倒して骨折したのです。認知機能も大きく下がり、入居したばかりの高齢者住宅に戻れるかどうかも危ぶまれるほどでした。
今年に入ってから毎月のように帰省しては対応を重ねる中で、わたしの疲労はピークに達しており、埼玉から島根へはもう通いきれないと判断しました。幸い、引越しの体力はギリギリありそうでした。一年前なら到底できなかったと思います。
療養費も尽きていたので、埼玉で仕事を探すより移住先で仕事を探したかった…いろんな要因が重なっての移住実現です。
あるひとがわたしに言いました。「お母さんが移住の後押しをしてくれたのかもしれないね」
9.取るものもとりあえず引っ越し
仕事は決まりましたがお金はありません。当座の生活費は自慢じゃないが借金です。引っ越し代は何とか自力で…貯金をかき集めて出し切りました。秋までは綱渡りのような家計ですのでこの記事にサポートいただけると泣いて喜びます…。
住まいは、見学や地域おこし協力隊の面接時にお世話になった民宿のHさんの貸家が空いているとのことで、格安で貸してくださることになりました。しかも家電家具付き。
車なしには生活できませんが、大学の同期Sちゃんの厚意で、なんと軽トラを借りることができました。この愛車で片道16キロ(所要時間約30分)を通勤します。
迷走した仕事も2024年4月半ばに就職のめどがつき、5月20日には晴れて安芸高田市民になりました。
自分のこと、夫と息子のこと、実母のこと、仕事や暮らしのこと…一つ一つクリアできたのは、自分を活かせる環境をあきらめなかったからかもしれません。夫とは「夜逃げ同然の喧嘩別れ」になってもおかしくなかったのですが、今までありがとうと言って和やかな別居となりました。
今まで続けてきたこと…それが長いほど、やめるのは難しい。「やめてどうするの?」と頭の中で声がして、そこで怖くなると考えるのをやめるから。じっさい何度も怖くなったけど、わたしはこのタイミングを逃したくなかった。
10.ここで全てを感じ取っていく
兎にも角にもこうして移住生活が始まりました。
歩いて2分で江の川(ごうのかわ:日本海に流れ込む一級河川。この辺りの流れは、可愛川えのかわと呼ばれています)の川土手に出られます。山々に囲まれた盆地で景色が実に美しい…これを日々堪能できます。
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空気や水環境がよく、静かな場所で、わたしの身体は落ち着きを取り戻してきています。同じ料理を作ってもおいしく感じるのは、野菜の鮮度が良いのと水が良いせいでしょう。
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負荷が大きいテレビは見ておらず、時折ラジオを聴きます。
自分を労わりながらの生活です。家事の負担も減りました。
東京から離れたことで、SNSともちょうど良い距離感になった気がします。首都圏にいるとイベントが多く、そこに参加できない焦りとか申し訳なさを感じていました。自分にとっては結構な負荷だったんだなぁ。
今の住まいも一般の人は入りにくいところにあり、ちょっと匿われた雰囲気。いずれは拠点を決めてそこに移らなければならないのですが、ちょうど良い環境です。
では自分に良いことばっかりかというと、当然そんなことはありません。
寒暖の差には途方に暮れました。6月なのに室内ではトレーナーやフリース。出かける時は長袖Tシャツ一枚になるけどそれでも暑い。地元の人にとっても今年は異常だそうです。
一番近いスーパーは道の駅で片道3キロ、一番近いコンビニが片道2キロです。広島市内へのバスは1時間に一本。所要時間は1時間半以上。
今は季節がいいですが、冬場はスタッドレスタイヤが必須で、雪も降ります。
住まいは昔の民家ですので壁の隙間から光が入ってきます。つまり冬はここから隙間風が入るってことです。窓は多くてガラスはシングル。「断熱?なにそれおいしいの?」って世界。寒い冬、室内の熱はどんどん逃げていく…
寒さに弱いわたしが何とかやっていくためには、いろんな工夫や投資が必要です。
これから夏にかけては虫も増えます。スーパーや薬局では虫対策のコーナーが超充実しています。自然が豊かとは虫も豊かってことです…。壁の隙間からは虫も入れますねぇ(ひ〜)。
河原を、夜間は道路を普通に歩く鹿(意外と大きい)にギョッとし、ムカデの出現に怯え、カメムシと闘いながら生活するのはちょっと憂鬱です。
それでも、折に触れてノートに書いてきたことが実現した嬉しさがあります。まだ住み始めて間がないけれど、自然の助けを借りながら、さらに自分とつながっていける実感があります。
満たされたじぶんで、笑顔で愛を配っていく。それを具体的な形にすることがこれからの人生です。
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とにかく来てしまいました(笑)。
よくやった、わたし!(自画自賛)
移住3週間後の6月9日、引っ越しのお供『カウボーイ・サマー』を読み終わりました。3週目にしてようやく読書する余裕が出てきました。(最後、馬とのシーンには涙が…)
前田さんのサインには“cowboy up!” と書かれています。
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それは「たとえ落馬してももう一度立ち上がって乗り、諦めずにやり通すことを鼓舞する言葉」と本書にあります。また専門家の言葉として「(カウボーイとは)あらゆる困難の中に不可能を覆すことの挑戦を見出す精神的タフネス」と紹介がありました。(詳しくは本書をぜひ!)
偶然とはいえ、今のわたしにぴったりじゃありませんか…
それは「移住を諦めなかったわたし」への言葉でもあり、「自分の人生を諦めない」これからへのエールでもあります。正念場はむしろこれから。
前田さん、ありがとうございました!!
以上がヘタレのオバサンでも移住できましたという記録です。
よりわたしらしく、ここの全てを感じ取って表現しながら生きていきます。
長文をお読みくださりありがとうございました。
最後まで読んで下さって有難うございます。 頂いたサポートは、noter さんに会いに行くために使わせていただきます。「愛を配って生きていく」意欲が3割増し!!! 応援して下さるあなたにも素敵な出会いがありますように。