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教壇に立ち続ける 115 何のために学ぶのか【note限定記事】

無事に転勤できそうです。どうも星野です。今日は連続投稿日、教育について多角的にみていく企画。ひとつめのお題は「何のために学ぶのか」というお話。来年度からは常勤になるので、今まで以上に不定期更新かつ更新頻度も下がるかと思われますが、なにとぞご愛顧賜りますようお願い申し上げます。この記事を読んで、参考になったなーとか、いいなと思って頂けたらサポートをお願いします。minneとFantiaはこちら。残り2か月でどこまで書けるか(作れるか)の勝負になりつつあります。応援よろしくお願いします。

なぜ今「学ぶこと」が大事なのか

誰もが一度はぶつかる壁、それがこの「自分は何のために学ぶのか」という疑問だと思います。いまひとつ学校の勉強に価値があると感じられない、あるいは勉強の楽しさがわからない……そんな生徒や大人が多いのが現状です。実際に私も勤務先で、そういう声を耳にしました。それはひとえに私の授業に問題があるということでしょう。そこは反省しています。学ぶ姿勢を指導するのが我々教員の仕事ですから。しかし学制ができてから百年とちょっと経っても、生徒の間で「何のために学ぶのか」という疑問は相変わらず存在しています。それにどう答えるか、教師はいつの世も頭を悩ませているのです。きっと保護者の方も同じだと思います、お子さんが「勉強したくない」と言ったらだいたい押し問答になりますよね。学問に魅力が無くなっているのか、と言われればそうでもないとは思うのですが、伝えきれていない部分も多くあります。そして昨年の日本学術会議の一件からもわかる通り、学問はいま「選ばれた人たちがやっている難解なもの」「一般人には理解できないもの」になりつつあるのかもしれません。学問は自分には要らない。そういう知性に対する冷笑が、世間に蔓延していることがどうにも心苦しいです。だから、そんな世の中に逆行する形で私が「みんな学問を修めるべきだ」と吠えまくるのがこの記事です。

わたしの場合

個人の経験の話から始まって申し訳ないのですが、実体験をひとつ。
私自身は勝手に何か調べ物をしながら、本を読んで楽しそうにしている子どもだったので、「勉強しなさい」と言われたことはありませんでした。なぜ勉強が好きだったか(今も好きなのか)と問われれば、もう個性の範囲であるとしか言いようがないかもしれませんが、例えば街にあふれる漢字のひとつが読めるようになった時のうれしさや、動物園に行って触った生き物の暮らしに想いを馳せる瞬間のワクワクする感じとか、そういう知的好奇心を満たしてくれることが、私にとっては非常にありがたいものだったのです。自分の世界がどんどん広がって、知っていることが増えて、たまに役に立つこともあったりして……そういう「知のサイクル」が個人的には非常にいとおしいものだと感じています。生徒にも学ぶ楽しさを知ってほしいと思いながら教壇に立っていますし、向き不向きはあるとしても最低限の教養は身につけておいた方がいいよね、というのが私のスタンスです。

学ぶことは「自由」をもたらす

一般的には、学ぶことの意味は「自由になること」だと言われています。今読んでいる読書猿さんの「独学大全」や、汐見稔幸さんの「人生を豊かにする学び方」でも、他の書籍でも、だいたいはそのように書かれています。そして私も基本的にはその意見に賛成の立場です。具体的な例も交えながら書いていきますね。
まず、貧困家庭に生まれたけれど、将来はお金を稼げる仕事に就きたい、という生徒がいたとします。そういう生徒にとって学校以外の教育機関を頼ることは難しいです。塾や通信教材なども、彼らには届かない。けれど、公立の中高から国公立大学に進学することは無理ではありません。(家の手伝いをすることが考えられるので、茨の道であることには変わりがないですが)学校教育だけで十分「現在の経済的階層から抜け出せる」チャンスは転がっているわけですね。
あるいはいじめに遭っていたり、児童虐待を受けている生徒の場合。現在は「子ども六法」という本も出版されているので、そういう本を学校の図書館等で読んで理解できれば、その生徒は「現在の苦しいヒエラルキーの下層から抜け出せる」チャンスがあります。補足情報で児童虐待の話をすると、文字記録・音声記録などの証拠がしっかりしていて、児童相談所等も支援してくれた場合、結構な確率で弁護士の方がついてくれるそうです。勝てる裁判だと分かれば味方になってくれるらしいですよ。

閑話休題。話を戻します。学問を修めると「自由になれる」というお話でした。
自由の定義は人それぞれ異なるとは思いますが、前述した実益の部分以外にも自由になれる要素があります。逆境に立ち向かおうとする生徒だけでなく、ごく一般的な児童生徒たちにも「自由」を提供してくれるのです。例えば、ネットニュース、SNS等で流れてくるデマ記事を見抜く力。あれは完全に国語のメディアリテラシーに関する技術でどうとでもなります。そうでなくても、就職した後に使う知識や技術は学校で学んだことの応用ですし、勉強する過程で身につけられる諸能力――学習計画を立てる「プランニング」、調べ物をする技術、それ以外にも「きれいに字を書ける」というだけでも好印象です――は、必ず身を助けてくれるのです。だから私は、今のご時世で女の子は良くて短大などという価値観は捨て去るべきだと思っています。現代の社会では、まだまだ女性の方が非正規雇用になりやすいのだから、知識を身につけてサバイブしていく能力を与えるのが本当の親心というものでしょう。そして社会に出た女性たちが、社会に変革をもたらす存在になってくれたらとても素晴らしいですよね。

大学の学部、院くらいになってくると、研究はすればするほど果てがなく、楽しいものです。新たなことを知って、それを自分の研究に繋げたり、交流したり……知見を得ることはそれだけで価値あるものです。そして学問を楽しむ素地のあるところから、革新的な発明や発見があるのだと思っています。だから本来なら、大学の研究室にもっとお金を投資すべきだと思うのですが、それが成されない限りは日本のノーベル賞も遠くになりにけり、という状況になるだけだと考えています。

まとめ

偏見や差別、貧困……苦しい時に助けてくれるのはきっと学問なのだ。学問を修めることはちゃんと意味があるのだ。
それを我々教師が信じないでどうする。
私は学びの種まきをしながら、生徒たちに「勉強って楽しいかも」と思ってもらえるように頑張ります。学問を守り、学問に守られる生活が続くように。それでは、また。

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