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「翻訳できないわたしの言葉」(清澄白河) レポ

泣いてしまった。
まずは概要から。東京都現代美術館にて7月7日まで開催中。今日だ!
読んだらすぐ行ってください、損はしません。特に言葉に関わる仕事をする人には、とても刺激的な体験になること間違いなしです。
開館時間は18時まで。清澄白河の駅から美術館へ行く通りに、とても素敵な古本屋さんや、美味しい抹茶ラテが飲めるお店もあります。

当事者意識

私にとって言葉は商売道具です。
国語の教員としても、ライターとしても、言葉を発することによって相手に影響を与えるという意味では等しく「権力性」を持っている、ということになります。言葉を武器にしている以上、言葉の「強さ」を意識している。
自分が無意識に発した言葉が、誰かを傷つけてしまうこともある。
自分が発した言葉によって、誰かを勇気づけることもできる。
言葉の「魔力」というものを強く感じた展示でした。
というか、わかった気になっていただけで自分があまりにも無自覚だったとビンタを食らったような感じもありました。
言葉を、できれば誰かの幸せを祈るために使いたい。
それだけの「魔術」は自分で構築してきたはず。
言葉を使って生きる私は「言葉と切り離せない」存在として、豊かに世界を彩っていきたい。そんな想いを抱きました。

言葉の多様性

アイヌの人々の言葉、うちなーぐち、消えてしまったユダヤ人の言葉。
人間ひとりひとりのバックグラウンドに、言葉というものが存在している。
だからこそ私たちは「翻訳できない言葉」を内に秘めて生きている。
それをテーマにしたこの展示は、現代アートの名を借りて、アーティストの個別の問題提起、意思表示をする場にもなっていました。
特に「日本とブラジル」の間を越境する子どもたちの展示は、自分の興味の領域に近かったので見入ってしまいました。金仁淑さんのものです。
多くの来場者によるガーランドの展示など、ひとりひとりの言語的な状況がよくわかるものにも心を打たれました。
そのなかで、「身体感覚」というものは言葉を使う大前提として必要であるという意識を強くしました。
「からだの声」をテーマにいろいろな実践をした新井秀夫さんの展示を見てその実感が得られたのも、行ってよかったポイントのひとつです。
どんな形であれ、意思表示など何かしらのメッセージを帯びるものはすべて「言葉」と呼べる。そんな気もしてきました。

泣いた理由は……

私の涙の理由は、決してマイナスのものではないです。
個別の事例が「そのままの状態で存在できる」多様性を想う感情だったのだと思っています。
言葉で表せないものもある、言葉にならない思いもある。
でも、それらを「言葉にしない」選択を、私はしたくないなと思いました。
無理に言葉にする必要はないとも思うし、言葉は万能ではないです。
だからこそその限界に挑みたい。
それは今まで私がもらった言葉が、まだ魔法として私の中に生きている証左でもあります。
この体験を糧にして、言葉をしなやかに使える人間であろうと決意を新たにしました。

何かに反射するもの、それが言葉

今後の執筆の糧を頂戴できれば幸いです。お気持ちだけで結構です。