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教壇に立ち続ける ㊿ 古典をどう教えるか・こてほんを聞いて【note限定記事】

今日は久しぶりに部屋の掃除をしました。夕方になってひと雨きたので、その前になんとかできてよかった。どうも星野です。採点の祭典で目が回りそうです。今日は「こてほん」の高校生ディスカッションがあったので、それにまつわる話をしようと思います。1日1本プロジェクト進行中。いいなと思って頂けたらサポートをお願いします。minneとFantiaはこちら。

近々新作をアップロードします。それらはTwitterで告知しているので、そちらでも交流してくださったらうれしいです。最近コメントを書き込んでくださる方が多くて、励みになっています。ありがとうございます。

古典を学ぶ意義。それは果たしてどこにあるのか。文科省の新学習指導要領にまつわる話として昨今よく取り沙汰されている問題ですが、今日は私なりにこれを考えていこうと思っています。

私自身は、古典が好きです。専門ではないのですが、解説書を読んだり、原典にあたったり、古典文学の面白さを自分なりに享受してきた側の人間です。一方で、古典は苦手、古典なんか嫌い、という人もいることは認識しています。勤務している学校の生徒は、むしろ古典を苦手とする子のほうが大多数です。彼らは高校3年になっても現代仮名遣いがわからなかったり、助動詞の「意味」と言われても「連体形」と答えたり、まあなんというか本当に知識も少ないし興味も薄いです。
それを私がいきなり授業で「古典は面白いぞ! ちゃんと読めばわかるぞ!」などと言っても、溝は埋まらないでしょう。逆に対立は深まるばかりです。

では古典を楽しめない人と、私のように古典を大事だと思って教える人は、どうやって共存していけばいいのか。
それについて様々なご意見が昨夜Twitterを飛び交っていましたが、個人的には「わからないものを飲み込むこと」が互いに重要なのではないかと考えています。

古典文学を「現代と同じだね」と考えるのは浅いです。受け売りになってしまうかもしれませんが、今とはまったく異なる文化・歴史を持っている作品を読むのですから、意味が分からないこと、理解しがたいことなどもあって当然だと思います。しかし我々教員は往々にして「古典を身近なものに置き換えてしまう」癖があるようです。私も「エモい」という単語と「あはれ」という単語で話をしたことがありますが、あれは自分でもよくなかったなと反省しています。それは「理解できた気になってしまう」からです。「あはれ」という単語が持つ意味と、「エモい」という単語が持つ意味は当然領域が異なりますし、生まれた背景も異なります。あまりに身近すぎるものに置き換えるのは、本質を見誤ることにつながり、古典そのものを味わうことができなくなるため、よくないと考えます。(というわけで、私の実践も悪かったということですね。)

「わからない」だらけの古典の世界を、基礎知識である文法や単語、歴史的背景をもとにして解釈していく、そしてその過程で「どこがわからなくてモヤモヤするのかをはっきりさせる」(昨日のリフレクションの話とも重なりますね)のが大事なのではないかと考えています。
古典の世界を身近にするというよりは、「知らない世界と出会う」ことを前提として構築する必要があるのです。
そこで今回の「こてほん」で出た「教師の教え方が悪い」というところに行きつくのだろうと推測しています。
教師が無理やりわからせよう、納得させようとして身近にしすぎるのも、逆に専門家レベルの話をして「ここまで理解しろ」とハードルを上げるのもよくないと思います。

話が若干逸れますが、上村さんのおっしゃっていた「勉強は誰でも好きになれるものではない」というお話が私の中に深く刺さっているから、こういうことを考えたのではないかと自己分析しています。古典も、興味関心があるかは生徒の好き好きでいいだろうし、何より作品が響かなくても別の何かが生徒に響くこともあるわけです。上村さんはサッカーの例を出していましたが、自分ができるからと言って誰でもできるわけではないし、できないことを責める理由にはならないのです。

そのうえで私は、生徒の興味関心を引こうとする努力はしますが、最低限身につけてほしい「道具」だけ渡す古典教育を目指そうかな、と現時点では思っています。
どういうことかというと、古典の情報にアクセスするための道具を教えるのです。一般教養レベルの知識や、作品の面白さも伝えますが、「好きになれ」という強要はしません。ただ、「文法」「単語」などの基礎基本を徹底的にさらい、そのうえに歴史的事実を乗せて、「じゃああなたはどう解釈する?」と投げかけてみようと思っています。「わからない」なら私のできる限りの知識で対応するけれど、飲み込めないならそのままでもいいことにしたいのです。
わからないことを無理やり理解なんてできません。しかしそのモヤモヤとした「わからなさ」と付き合っていくことが、大人になってから「あれ何だったんだろう」と自分で調べて解決できたらそれでいいだろうし、なおかつ解決して何かその子の人生の足しになれば、教師としては万々歳なわけです。わからないことをそのまま飲み込むことはとても大変です。据わりが悪くて嫌になるかもしれません。けれど悩みぬくことが本当の力になると思うから、私はあえてそういう茨の道を共に歩むことにしました。
現代と同じではない、縦に伸びる歴史の層を見ながら、そこから化石を発掘する感覚で、古典を教えていけたらいいなと思っています。
それでは、また。


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