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長崎/人物・歴史・エトセトラ

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#被爆遺構

原爆により倒壊、全焼した為、諏訪神社の長坂で青空授業を行った西坂小学校

長崎市立西坂小学校。爆心地より2.1kmの距離にありましたが、木造であった為、管理棟・教室棟とも爆風により倒壊し、その後発生した火災により全焼しました。 被災後の西坂小学校・校地です。鉄筋であった城山小や山里小とちがって、木造であったことにより、跡形もなくなっています。学校の証としては正面に見えるコンクリート製の壁と門柱だけが残っているだけです。 しかし、それがゆえに何かを残そうという配慮があったのでしょうか、校舎の裏手には写真に写っていると見られる古い門柱と階段が残され

原爆被爆前の跡 ~ 私が幼い頃過ごした住吉チトセピア東の、坂段に挟まれた緑地帯

長崎市住吉にあるイオン系の商業施設、チトセピア。 ここには、私のふるさとである公営アパート群がありました。 原爆が投下された時、この辺りにもマッハステムという強烈な爆風が吹き、壊滅的な被害を与えたのですが、当時高圧線の下あたりは水田であり、建物などの損壊は無かったようです。 戦後、その水田が宅地として整備され、昭和26年頃、私の住んでいたアパートも建てられたのですが、この高圧線の下だけは鉄塔・電線が撤去された後も、宅地とはならず、公園や緑地として、今に残っているというわけ

学舎は果たされなかった多くの志の上に立つ ~ 長崎大学・文教キャンパス

長崎大学・文教キャンパスの純心学園に接するあたりに残された標柱です。そこには「兵器」と刻まれています。 現・長大文教キャンパスは、原爆により壊滅した「三菱長崎兵器製作所大橋工場」があった場所でした。 ここは爆心地からわずか1.3kmの場所にあたります。 画像は米軍機から撮影された同地です。白く残った道路でかろうじて場所が特定できるだけとなっています。 下は昭和19年に大橋兵器工場の第三機械工場の正門前で撮られた学徒たちの記念写真です。 ・・地下足袋にゲートルを巻いた若き学

全長303mの被爆建築物 - 三菱造船船型試験場

正式には「三菱重工業長崎研究所船型試験場」といい、全長303m、幅16.5mという細長い形は船の模型を使って性能を調べる為の試験水槽があるがゆえです。 全体的に戦前の姿をとどめる建物の中で、現存する最大のものなのですが、地味な存在のためかあまり知られていません・・・。 爆心から1.6kmと聞いてもピンときませんが、下の図を見るといかに原爆の破壊力がすさまじかったかがわかるような気がします。これは原爆投下から一ヶ月後にアメリカ軍が上空から撮影したものです。 あたり一面、形の

上五島へ~浦上天主堂の被爆煉瓦を使った鯛ノ浦教会

浦上天主堂の被爆遺構が撤去されたのは、いろんな事情があったにせよ、非常に残念なことだったと思うのですが、その時の被爆煉瓦が、この塔に使われていた・・という事実は、最近まで知りませんでした。 ここ鯛ノ浦のキリシタンたちも、禁教時代には、筆舌に尽くしがたい、はげしい迫害に遭っています。 地元の郷士が刀の試し切りの為に6人もの信徒を斬殺した「鯛ノ浦の六人切り」という事件などは、いかに当時の信者たちが「ヒト以下」に扱われていたか、を今に知らしめています・・・ どういったいきさつで

多くの修学旅行生が訪れる城山小学校は被爆校で唯一、廃校が決まっていた

長崎へ修学旅行で訪れた小中学校生たちがフィールド・ワークを行う際、必ず向かうのが、原爆資料館と平和・爆心地公園、そして城山小学校であると思われます。 この坂は、表通りからは裏手にあたるため、修学旅行生たちもあまり通らない「平和坂」です。 その平和坂の上り口にある被爆木、「双子クス」。原子爆弾が投下されるまで、城山国民学校の校門に至る2本の坂道には大樹が立ち並び、夏には見事な緑のトンネルを形づくっていました。 しかし、わずか500mという至近距離で原爆が炸裂したため、このあた

今もなお 立ち続ける証言者たち ~ 長崎の被爆樹木に会いにゆく ②

若草町を後にし、今回爆心地よりわずか800mという至近距離にある被爆木を探します。800mという距離はちょうど山王神社の大クスと同じ距離にあたります。 竹の久保町にある引地さん宅の柿の木とカシの木です。引地さん宅は活水学院中・高等学校と長崎西高校のグラウンドの間に位置しています。 カシの木の方は、比較的すんなりと見つけることが出来ました。 このカシの木は被爆時、中ほどからへし折られたそうなのですが、2年ほど経ってからまた芽吹いたそうです。向かって右側が爆心にあたり、やはりそ

今もなお 立ち続ける証言者たち ~ 長崎の被爆樹木に会いにゆく ①

当初のタイトル構想は、「被爆樹木を訪ねて」でしたが、事後に「会いにゆく」変更しました。 樹木は動物とは勿論違いますが、今回対面して「生きている」というインパクトが非常に大きく感じられましたので。 長崎の被爆樹木と言えば「山王神社の大クス」が圧倒的に有名で、ガイドブックに掲載されたり、書物にも多く登場していますが、もちろん同じ熱線と爆風に耐えながら今も尚立ち続ける被爆木は他に何本もあります。しかし、残念ながら殆ど知られることがありません。事実、私ですら今まであまり惹かれるもの

原爆の遺構は、私たちの住んでいる街そのもの

毎年、多くの修学旅行生や外国人ツーリストの方々が長崎原爆資料館や被爆遺構を訪れてくださっているようで、市民として、それは大変うれしいことだと思います。 しかし、皆さんタイトなスケジュールの中での訪問となることが多いせいでしょうか、資料館の展示やパンフレットに記載されている遺構だけが、現在残されているものだと理解されているように思えて仕方ありません。 「広島の原爆ドーム」のようなシンボル的な遺構が長崎には無い分、訪問者には見えづらい点はよく理解できますが、投下後70年以上(2