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長崎/人物・歴史・エトセトラ

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#原爆

浦上天主堂の石垣

ただでさえ、石垣に惹かれる私なのですが、浦上天主堂のまわりにある石垣は、爆心地からわずかに500mという至近距離にありながら、その猛烈な爆風に耐え、今もその姿を保っています・・・。 熱線により赤茶色に焼けているのが確認できますが、倒れる危険性などはないということです。 もともと、この石垣、原爆で焼失した旧浦上天主堂(大正3年完成)の時代の、さらにもっと前、旧浦上村山里の庄屋屋敷の石垣として造成されたものです。(浦上教会が高谷家から、明治13年に買収) 石垣は庄屋屋敷ととも

全長303mの被爆建築物 - 三菱造船船型試験場

正式には「三菱重工業長崎研究所船型試験場」といい、全長303m、幅16.5mという細長い形は船の模型を使って性能を調べる為の試験水槽があるがゆえです。 全体的に戦前の姿をとどめる建物の中で、現存する最大のものなのですが、地味な存在のためかあまり知られていません・・・。 爆心から1.6kmと聞いてもピンときませんが、下の図を見るといかに原爆の破壊力がすさまじかったかがわかるような気がします。これは原爆投下から一ヶ月後にアメリカ軍が上空から撮影したものです。 あたり一面、形の

多くの修学旅行生が訪れる城山小学校は被爆校で唯一、廃校が決まっていた

長崎へ修学旅行で訪れた小中学校生たちがフィールド・ワークを行う際、必ず向かうのが、原爆資料館と平和・爆心地公園、そして城山小学校であると思われます。 この坂は、表通りからは裏手にあたるため、修学旅行生たちもあまり通らない「平和坂」です。 その平和坂の上り口にある被爆木、「双子クス」。原子爆弾が投下されるまで、城山国民学校の校門に至る2本の坂道には大樹が立ち並び、夏には見事な緑のトンネルを形づくっていました。 しかし、わずか500mという至近距離で原爆が炸裂したため、このあた

The dropping of the atomic bomb was like a "human experiment to obtain data on killing power" made by the "madness" of war.

The title may be associated with a biased view. However, now that I was born and raised in Nagasaki and started to be aware of the curtain on my life, I felt the need to draw a conclusion. Perhaps this conclusion will be overturned in the

今もなお 立ち続ける証言者たち ~ 長崎の被爆樹木に会いにゆく ②

若草町を後にし、今回爆心地よりわずか800mという至近距離にある被爆木を探します。800mという距離はちょうど山王神社の大クスと同じ距離にあたります。 竹の久保町にある引地さん宅の柿の木とカシの木です。引地さん宅は活水学院中・高等学校と長崎西高校のグラウンドの間に位置しています。 カシの木の方は、比較的すんなりと見つけることが出来ました。 このカシの木は被爆時、中ほどからへし折られたそうなのですが、2年ほど経ってからまた芽吹いたそうです。向かって右側が爆心にあたり、やはりそ

今もなお 立ち続ける証言者たち ~ 長崎の被爆樹木に会いにゆく ①

当初のタイトル構想は、「被爆樹木を訪ねて」でしたが、事後に「会いにゆく」変更しました。 樹木は動物とは勿論違いますが、今回対面して「生きている」というインパクトが非常に大きく感じられましたので。 長崎の被爆樹木と言えば「山王神社の大クス」が圧倒的に有名で、ガイドブックに掲載されたり、書物にも多く登場していますが、もちろん同じ熱線と爆風に耐えながら今も尚立ち続ける被爆木は他に何本もあります。しかし、残念ながら殆ど知られることがありません。事実、私ですら今まであまり惹かれるもの

原爆の遺構は、私たちの住んでいる街そのもの

毎年、多くの修学旅行生や外国人ツーリストの方々が長崎原爆資料館や被爆遺構を訪れてくださっているようで、市民として、それは大変うれしいことだと思います。 しかし、皆さんタイトなスケジュールの中での訪問となることが多いせいでしょうか、資料館の展示やパンフレットに記載されている遺構だけが、現在残されているものだと理解されているように思えて仕方ありません。 「広島の原爆ドーム」のようなシンボル的な遺構が長崎には無い分、訪問者には見えづらい点はよく理解できますが、投下後70年以上(2

ほとんど誰にも知られていない、悲しみの原爆の碑

長崎市浦上地区にある西町踏み切り。何気ない風景の中を多くの人や車が通りすぎていきます。 しかし、この画像の中に「ほとんど誰にも知られていない、悲しみの原爆の碑」があるのです。 線路の脇に立つ、小さなお地蔵さん。 ・・・・気付く人さえいないかもしれません。 このお地蔵さんには、原爆に関する、こういう悲しいエピソードがあります・・・・ 『・・・そうして私たちは学校から帰ると、アメリカの兵隊さんが大きな穴を掘って残飯を捨てますから、それを急いで拾いに行って分けあって食べまし

原爆投下は、戦争の「狂気」が為した「殺傷力のデータを得る為の人体実験」のようなもの

標題は偏った見方を連想させるかもしれません。しかし、長崎に生まれ育ち、そろそろ人生の幕引きを意識しだした今、ひとつの結論を示す必要性を感じました。 もしかすると、今後この結論は覆るかもしれません。 しかし、現在考えうる全神経を集中させた結果たどり着いた文言は標題のようなものでした。 また、この記事を、長崎に修学旅行で来られる中学生の方が、平和学習の参考として読んでくれるかもしれないので、特にこの記事は「未来を担う中学生に向けて」書きたいと思います。 2018年の夏、何故だ

日本軍参謀本部は原爆投下情報を事前につかんでいた~NHKスペシャル「原爆投下 活かされなかった極秘情報」の紹介

長崎市に生まれ育ち、かつて教鞭をとっていた者として、この日ぐらいは原爆について書いてみたいと思います。 2011年10月29日(土)にNHKで「原爆投下 活かされなかった極秘情報」というドキュメンタリーが放送されました。今回、この番組を紹介したいと思いまして、同番組がどこかのサイトで閲覧することができるのであればそのサイトを紹介したいと思いました。 しかし、残念ながら有料かDVDでしか存在せず、結局それでは閲覧する人はかなり少ないと思いましたので、ここにそのダイジェストを

深い情愛で結ばれた親子の記憶が保存してある二畳の家 ~ 永井博士親子の如己堂

長崎市名誉市民外一号である、故・永井 隆博士が亡くなる約3年前から親子三人で暮らしていた住居はたった二畳一間の家。 ・・・長崎に暮らす自分にとっては大いに誇らしいことであるし、その家「如己堂(にょこどう)」を今、未来ある子ども達が修学旅行の傍ら立ち寄って見学している姿というのは、なんともうれしいものです。 その思いは、名誉市民になるような人がこのような謙虚な暮らしをしていたという安堵感からくるものでも、今、裕福な暮らしをする人を妬む気持ちの裏返しからくるなどという、ケチく