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ちょっといいハナシ

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#教育問題

学校教育に決定的に欠けているものの一つ ⑫  「児童・生徒の持つ楽観性が報われる環境」

保育園や幼稚園の卒園。それは寂しさ、切なさもあるが、同時に小学校新入学への期待・希望をにじませるものである。 「一年生になった~ら♪」という唄があるが、まさに保護者にとっては、そのイメージ通り、「明るく楽しい未来」を期待するものであることは当然だろう。 真新しいランドセル、学習机、入学式用の洋服。お祝いの会や品々。それらが益々期待を膨らませてくれる。 しかし。 その数か月後には学校へ行くことを渋り、「なぜ学校へいかなければならないの?」と暗い顔で保護者へ問いかける子ど

学校教育に決定的に欠けているものの一つ ⑫  「物事の真髄を探求する精神とマルチな能力を身に付ける機会」

「フィード・バック」。 教育の世界ではかなり昔から頻繁に使われている言葉だが、実は現行の教育制度では、この「フィード・バック」は有効に機能していない。また現代ではこの「フィード・バック」は、「肯定或いは否定して発言者に伝える」という狭義にのみ使われているようだ。 しかし本来、英語のfeedbackは、「食べ物を与える」という意味の「feed」と、「返す」という意味の「back」が組み合わさった単語である。転じて、フィードバックする内容は、返される側にとって活かせるものや糧に

学校教育に決定的に欠けているものの一つ ⑪  「卒業後の長い人生を支えていく力」に 繋がる教育内容

当たり前のことだが、人生は良くも悪くも、予期せぬことの連続である。 特に、次々と直面する問題は、当然ながら「己の力」で解決し乗り越えていかねばならない。 誰かに相談したり、ネットの相談などに頼るのもいいけれども、やはり最終的には自分自身の力で何とかするしかない。 つまり人生において直面する問題の中で最も大変なこととは、「他に前例がない、自分自身にのみ 与えられた問題」なのだ。 ところが、である。人は物心ついた時から長い長い年月、費やすことになる「学校」では、「問題解決

学校教育に決定的に欠けているものの一つ ⑩  教師が楽しんで仕事をすること

これが最も問題として深刻と言えるかもしれない。 「楽しむ」どころか、非常な心痛を抱きながら職務にあたる教師がかなり多いと言わざるを得ない。 結果、「心の病」により教師が長年に渡り休職することが、社会問題になりつつある。 そこまでいかなくとも、常に強度のストレスを感じている教師が児童・生徒の前に立つことは、非常に好ましくない状況である。 毎日、消化すべき内容が細かく計画されており、そのペースは児童一人一人の理解度など無視せざるを得ないほどの速さで流れている。 加えて、本来

学校教育に決定的に欠けているものの一つ ⑦  人が本来持つマルチな才能を結実する機会

日本が明治という時代になって間もない頃、長崎では明治政府によって堂々と?キリシタン弾圧が行われていたが、そこにフランス人のカトリック神父でド・ロという伝説的な人物が現れた。 今でも市民の間では「ド・ロさま」と親しみを込めて呼ばれているのだが、苦難の時代の長崎に会って、彼は実にマルチな才能を発揮した。 以下、箇条書きにまとめてみた。 ※ド・ロは教会建設に際しては、設計・施工したばかりでなく、自らもレンガや泥を運び、農作業では、先頭に立って肥桶をかつぐような人物だったのだが、

学校教育に決定的に欠けているものの一つ ⑥  個人が尊厳を保てるスペースと時間の余裕

.これについては、説明も必要ないような気がします。 生物学的に見ても、生存に適したスペースは必要であり、それは群れで生きる動物でも単独で行動する動物にとっても当てはまる事。 それを無視して、狭い檻の中でアヒルなどを飼育しているのが日本のよくある公園や遊園地。 その結果、どういうことが檻の中で起こっているか、覗いてみれば一目瞭然である。 一羽の「ターゲット」にされた弱い個体が、執拗に他のアヒル達から攻撃され、羽もボロボロに抜け落ちて、餌も口にすることができず瘦せ衰え、やっ

学校教育に決定的に欠けているものの一つ ⑤  学習者を主体とした教育へのアプローチと、そのシステム

教師時代のこと。不思議なもので、研修会のようなものに”招集”されると、とたんに受け身となる。 通常は一斉聴講という形となる為と、そもそもテーマ・内容が自分の興味と合致していない場合がほとんどなので、無理も無いのだが。 現在の「学校」も、「いかなければならない」というカラーが強いので、児童・生徒が小学一年生の時から、延々と受動的な学習者という立場を取るのも無理からぬことである。 2021年の現在でも「テストや入学試験があるから、やらなければならない」というけっして高くない

学校教育に決定的に欠けているものの一つ ④  トライ&エラー

この歳になってもまだまだ、未知の領域は途方も無く広く、初めて挑戦することは失敗だらけです。 ここで「トライ&エラー」が試されるわけですが、考えてみれば何らかの商売であっても人間関係でさえも、人生はこの「トライ&エラー」の連続ではないかと思うのです。 全てを学校教育のせいにするわけでは無いのですが、学校という場所はこの「トライ&エラー」が十分に学ぶ機会を提供していないと感じます。 エラーをすれば、エラーをした児童、生徒だけが分けられ、正解に至る公式を反復・復元するトレーニ

学校教育に決定的に欠けているものの一つ ③  ソフト・ランディング

おそらく多くの人が感じていることだと思いますが、特に幼稚園・保育園から小学校に上がる時のソフト・ランディングは本当にひどい状態で、昔からほとんど何ら変わっていません。 幼稚園。保育園時代は保護者と一緒に登園し、登園した時には必ず保育士さんが出迎えます。 そして、保護者と簡単な連絡をした後、まず保育士が子どもと話をした後、他の事の遊びに合流させたりします。 (但し、私たちの時代には、自分たちで歩いて登園していましたが、それは同じ幼稚園に通う子どもがうじゃうじゃいて、集団登園し

学校教育に決定的に欠けているものの一つ ① 自分で学習する時間・その方策

「勉強」「学習」と頻繁にこの言葉を使うが、一日の、いや一年の莫大な時間を割くその言葉の指すものは、「座学」であって、「自学」ではない。 しかし、どう考えたって「人が人生の中で学力を身に付ける勉強・学習」は後者。 その後者である「自学」は、「宿題」「課題」として、一日の大半を使い果たした夜間にゆだねられている。 当然、モチベーションは低いし、その方策もわからない。丸投げなのである。 従って、定着も無いまま、同じような「座学」が来る日も来る日も延々と繰り返される。 わから