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学校教育に決定的に欠けているものの一つ ⑤  学習者を主体とした教育へのアプローチと、そのシステム

教師時代のこと。不思議なもので、研修会のようなものに”招集”されると、とたんに受け身となる。

通常は一斉聴講という形となる為と、そもそもテーマ・内容が自分の興味と合致していない場合がほとんどなので、無理も無いのだが。

現在の「学校」も、「いかなければならない」というカラーが強いので、児童・生徒が小学一年生の時から、延々と受動的な学習者という立場を取るのも無理からぬことである。

2021年の現在でも「テストや入学試験があるから、やらなければならない」というけっして高くないモチベーションで学校現場は動いているようである。

このサイクルでずっといくならば、本来児童生徒が持っている「学びたい」という意欲が喚起されることもなく、主体性が発揮されることは期待できない。

最終学歴時に、「今後、進路をどうするか?」と問われても、何も決め手も無ければ、手掛かりも無いのである。

「どんな仕事に就きたいか?」と問われても、何一つ能動的にトライした経験が無いので、わからないのは当然で、「自分はゲームが好きだから、ゲームをつくるクリエイターになりたい」などと、根拠も何もない回答をするしかない。


確かに、いきなり小学一年生に、「何を勉強したいですか?」と尋ねても、何も出てくるわけはない。
しかし、「中に何も入っていない、知らない存在だから、教え込む」という立場をとってしまうと、その後前述のようなことに陥る。

どんなに幼くても、「一つの個性を持った存在」として、その可能性を「掘り起こしていく」という姿勢と観点を持って教育プログラムを編成しなければならない。
当然、評価もそれに準じたものになるべきである。

そう考えると、「教育は、その人の幸せや生きがいに関わる深遠な営み」であることがわかる。

教育は、「国民が学校へ行かなければならない義務」ではなく、「自分の気づかなかった資質や意欲に気づき、それを元に人生を切り拓いていく為の英知を身に付けることが保証される権利」なのである。


ある教育学者の古老は、「人が教育によって学んだ、唯一の証は、〔変わる〕ことである」と述べた。

教育によって〔変わる〕ことは、楽しいことであり、その人の人生を豊かにするものである。

この広い世界の、ひと時に誕生した命、その命は、本来、「学習者を主体とした教育」という恩寵(Graces)を与えられるべきものなのである。

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