恋は___

恋は、

恋は昨日よりも 美しい夕暮れ
恋は届かない 悲しきテレパシー

恋は待ちきれず 咲き急ぐ桜
恋は焼きついて 離れない瞳


地平線に沈みゆく太陽が空を黄昏色に染める。
長く伸びた影とアスファルトの境目が分からなくなっていく。
iPhoneから流れてくる曲がそんな情景に似つかわしく、心も染めていくかのよう。
音楽は自分が見たい景色や感じたい心情をデザインしてくれる。
そして、哀愁の漂う「何か」を懐かしく思い出させるものでもある。





段々色気づいくる人が出てきて、小学校の頃の幼さが徐々に抜けていく。
堰を切ったかのように、そういう振る舞いが中学生としての証になっていくのだ。

そんな中、「恋」というのは中学時代において一大事だ。
誰かのお付き合いが始まればたちまち広まるし、誰かくんが誰かちゃんを好きらしいという噂も人づてに伝わってくる。

好きな子を横目でちらちら見ちゃったり、変に気を引こうとしてあらぬ方向へ冒険してしまう時期はやってくる。
だけど、恋というものはそれ以上に繊細で、敏感なものであると思っていた。
好きとか嫌いとかじゃなくて、もっと奥深くて、「雰囲気」に近いものなんじゃないか、と。
「冷めてる」とか「真面目すぎる」と言われても、心の中では、「好き嫌いの世界」で青春を過ごす事への腑に落ちないもどかしさは解決できないのだ。

上手く説明できない、ということが周りの人を困惑させ、余計分かりにくかったとしたらそれはそれでしょうがなかった。

恋人と手をつなぎ、一緒に帰ったり、どこかへ遊びに行ったりすることをどうしても真正面から受け止めることができない。
キラキラした「昼間の恋」に憧れられなかった。

そして、そんな自分の思いをつらつらと語れるほど、まだ大人でもなかった。




僕にとっての恋。
例えるなら、どこか斜に構えた「夕暮れの恋」だった。
沈みかけた夕日の淡い光と温もりを背に受けて、腰かけたベンチから遠くに見えるショッピング帰りのカップルを眺める。

だけど、見ているようで見ていない。
見えているのは、頭の中のキャンバスに描いたあの子。
期待や不安、理想と現実を鉛筆で書き足したり消しゴムでかき消したり。
浮かんでは消えていく希望に一喜一憂して、唇を噛みしめたりすることもある。


『恋って、いいですか?』
『恋って・・・いいですよ』

昔流れていたテレビコマーシャルに思いを馳せた。
・・・恋って、なんですか。



恋は、昨日よりも美しい夕暮れ。

落ち込んだり、へこんだり、ちょっと嬉しくなったときに頭が冷えて。
そんなときに夕暮れの黄昏色やカラスが鳴く声、空にこだまする電車の音がいつもより体に染みてくる、心の隙間を埋め合わせるように。


恋は、届かない悲しきテレパシー。

目に見えないパワーで相手を想っても、何か効果がある訳じゃない。
相手に気づいてもらうとか、虫が良すぎる事だって分かってるけど。


恋は、待ちきれず咲き急ぐ桜。

頭の中では成功のシナリオが浮かんでいる。
それだけで上手くいった気分になるけど、本当は何も進展してなくて。
イメージだけが膨らんで、もどかしくなっていく。


恋は、焼きついて離れない瞳。

一瞬、目が合って鼓動が波打つ。
忘れられなくて、二度目があるとしたら、いつなのかとかって考えたり。
目に映ったちょっとした仕草でさえ、ふとした瞬間に思い出したり。



思い返すのは好きだ。
甘味の薄い甘酸っぱさを感じていた青春は、ようやく一息ついて次へのステップの踏み台になっている。

悲観する事なんて何一つない。
過ちだったな、と思えば、何か学びを見つけて時間をかけて道を変えていけばいい。
淡すぎたな、と思えば、しばらくその淡さに浸って苦笑いしてから動き出せばいい。

間違い、というのは一種の幻想で自分の心の持ちようでどうとでもなる。
ただ在るのは「上手くいかなかった」という経験だけなのだ。
それを踏まえて変化していくことは必要。
だけど、今まで大切にしていたものまで丸ごと捨ててしまうのは過去の自分に申し訳ない。
人生を通して寄り添っていくべきものもあるのだ。


僕にとって、いつまでも捨てきれないこと。

『恋は、夕暮れ』


恋は夕暮れ(スピッツ)

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