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「1日=24時間」だったかつての世界へと戻ってきたひきこもり

ここ2ヶ月間、気の緩みと精神的な気力不足によって、「睡眠の質」「起床の質」共に落ちてしまっていた。それによって色々な物事を必要以上に悲観し始めたり、収まっていたはずの希死念慮がぶり返すなど明らかに心身の悪化が体感されたことに危機感を持ち、そこで何とか、せめて「元居た崖」の位置にまでは這い上がるべく改めて、「一日全体の質を上げる」ことを意識して過ごしてみた。

「夜」との接続

夜という時間は、一言で表せば「眠りへの橋を渡る時間」
だと私は認識している。

科学的には、日中に得られた限りのセロトニンが睡眠ホルモンであるメラトニンへと徐々に変換されてゆく時間帯だ。科学的な現象ではあるが、こうして文字に起こすと素敵な魔法にも思える。

ともかくそうした「夜」の重要性を認識していながらにして、私は寝る目前までPCの画面にかじりついて、冷たいブルーライトの照射によって、睡眠へ至るための架け橋をイタズラに焼き焦がしてしまっていた。
(※健康関連の情報は普段漁らないという読者さん向けに補足しておくと、PCやスマホの画面が発するブルーライトは人間の脳を「太陽光だ、つまり朝の訪れだ!」と誤解させ、不自然に覚醒させてしまうと言われている)

なので私は「寝る前2時間は画面を見ない」という決まりを自身へと課した。達成確率を補強すべく、その内容を敢えてSNSで宣言し、心理学的な"宣言効果"も狙ってみる。

結果、上手くいった。そもそも、希死念慮や悲観癖が再発したという状況は自身にとっても辛いものだったようで、「あの辛さから逃げたい」という気持ちも生活習慣の是正を後押ししてくれたように思う。

睡眠2時間前の過ごし方は「読書灯+本」というアイテムに限定し、比較的静かな時間を過ごした。そうすると、ネットを見ている時よりも遥かに充実感と幸福度が高いから不思議なものだ。夜といえば、脳だって本当は休みたいのかも知れない。

これに関して、もう一歩深く触れてみたい。どうも人間の意識にはPCやスマホといった機器自体と同様"バックグラウンドアプリの起動"という機能が搭載されているらしい。これは私自身が考え付いたのではなく色々な人が指摘している性質で、例えば机上のプリントに向き合って宿題をやっている最中であっても、視界に入る位置にスマホでもあれば、(通知が来るかも知れない…)(電話が来るかも知れない…)(アプリを起動して遊ぼうかな…)などなど、脳は直接的にその行動を行ってはいないにしても、背後で"ソレ用"に脳の使用領域が割かれてしまうという理不尽な現象が起きるらしい。この性質を用いた実験では、実際に被験者たちの成績が条件に応じて上下したとのことだ。

以上述べた性質を踏まえると、視界の中には読書灯の暖かな光と、今どき古風な"紙の本"しか無い場合の私が、ネットを見るよりも落ち着いて、幸福に過ごせるというのも至って当然の道理なのだろう。終わりの無い電子的な快楽に気を散らし続けなくて済む。

かくして試作は功を成し、私は夜という時間へ正しく接続することが出来た。夜を整えるだけでも睡眠の質は上がるようで、翌日の希死念慮や、過度に悲観的な思考を抑えることにも成功する。また、睡眠の質とは翌日の全般的なパフォーマンスにも影響するため、改善に掛けた労力に対しては釣り合わないほど効果が大きいように感じている。100円の支払いに対して1000円のお釣りが返ってきたようで、戸惑ってしまう程だ。

私の体験上、長年の睡眠障害を抱えている人は皆口をそろえて
「人間は睡眠が全てだよ」と、哀愁交じりの声でそう仰る。
彼らの言葉はいつも心に重く響いてくる。

「朝」との接続

朝という時間は、「一日の開始を担う聖域」であると今では認識している。起床後にどのような行動を取るかによって、脳の覚醒度合いや、その日全体を占めるの気分が大幅に変わってくるからだ。

(※「朝」に関して、実は私の一つ前のnote記事にも書いてしまっているので、内容が大幅に重複してしまうことを予めお断りしておきたい。どうかご容赦ください。)

ダメなひきこもりの典型例というものか、私は最近、朝起きてすぐにPCを起動して、そこで自分にとっての最低限のニュースや、ネットで関わらせていただいている知人からの通知を確認するに留まらず、読んだ文面などから興味が湧いたことを次から次に調べ繋いで、その内にもはや何の重要性もないYoutTube動画でも見てしまって、一日の開始早々に頭の中を混線させてしまっていた。これが本当にダメで、起床早々に頭がごちゃごちゃになっていると、その他の行動や思考に至っても一日中ごちゃごちゃが続いてしまう。汚れた空間に神仏が降りてくださる余地など無いらしい。朝を「有意義な一日」を招くための聖域に出来ていない…。ちなみに、これはビジネス書などでよく仕事について言われる話とも重なっていて、曰く「良質なアイデアが舞い降りてくるのは綺麗な部屋で」とのこと。

ということで、これについては改めて散歩を習慣化させた。最近は寒さによって「外界」から足が遠のいていたのだが(ドア一枚隔てているだけなのに妙な話…)、目が覚めたあとは急がず、かと言ってダラダラもせずに淡々と支度を進めて、ちゃんと着替えて、万全に防寒を成して、外に出るようにしてみた。

出勤するサラリーマンや、健気に通学する生徒たち、子供を見送る母親など、朝の世界にはひきこもりから最も遠そうな華々しい姿が見られ、やはり刺激にはなるなと思わされる。彼らと同じように道を行き交うことで、まるで自分も立派な社会の一員に加われたような錯覚もされる。ほんの気休め程度のものだ。

この時期に散歩をしていると「空が綺麗だ」と思う瞬間がことさら多い。冬の空とは、自由を謳歌するような夏の空とはまた違って、ガラス細工のように静かで情緒的な綺麗さがある。とくに、日の出間際に、遠方の山から橙の光球が現れて、無数の雲のシルエットが曼荼羅の如く際立つ光景には息を呑む。一方で、街は陰鬱なベールで自身の頭をすっぽり覆って、頑なに顔を上げようとしない病人の様相を見せており、すぐ頭上にはこんなにも見事な"現実世界"があるのに、現代人は一体何をやっているのか…と虚しい気分になったりもする。「ひきこもりがそれを言うな」と言われればそれまでである。

足を中心にして全身に血が巡っていく感覚や、その日の空の色や、光の加減。風の温度や匂いなど、「その日一日」という固有の時間を生きる為に、人間側が心身の最適化が行っている感覚を散歩をしていると味わう。余計な娯楽情報に脳が浸る隙もなく、街や自然の移り変わりを淡々と目にできる。すると意識は「単に朝起きる」以上に明瞭になってきて、思考も冴えて纏まりやすくなってくる。これが本来、朝に敷かれるべき「聖域」なのではないか。思えば、人間以外の生物たちも日の出によって一日の開始を知り、ちゃんと外で何かしらの行動を取っている。上の方では本筋から逸れた話が多くなってしまったが、こっちはかなり重要そうだ。

繰り返しになるが、やはり朝は「聖域」であるべきなのだろう。子供の頃は健康や生活習慣なんて、他に楽しいことが無くなった年寄りの暇つぶしのように感じていたが、実際に自分が色々なことで苦しんだり、心身の異常を体験してきたことで、如何にそれら"退屈なまでに基本的なこと"が重大なことであって、人間の存在を裏側から支えてくれていたのかを甚だ痛感しているここ数年になる。こうやって人は学んでいくものなのだろう。私のような愚者であっても、これを死ぬ前に気付くことが出来たのは幸運だった。

地球の一日は24時間

「朝」と「夜」の過ごし方をそれぞれ整えることで
「一日の体感時間が大幅に長くなる」という面白い変化が起こった。

砂時計の砂がさらさらと落ちている。
気まぐれに吹いた風が窓を撫でると、金魚が翻って
ビー玉の奥の太陽が何度か瞬く。
時計の秒針がちゃんと一秒ずつ進んでいる世界…。

かつて壊れた昼夜の中で、「朝」も知らずに、寝た気もしない怠惰な夜だけがあった頃とは、見える世界がまるで違っている。日々が体感6時間で過ぎ去っていたのがあの頃の私には信じられないかも知れないが、
1日は24時間だったのだ…。

朝らしい「朝」があり、夜らしい「夜」を過ごすことで、枯れた肉体に血液が再び巡り始めるかの如く、生きていることへの実感、充実感までも戻ってき始めた。

おわりに

ここ2年ほどは単に「昼夜が逆転してしまわないように」という意識くらいは持って過ごしてきましたが、今回「朝と夜を整える」という意識の獲得によってまた一歩前に進むことが出来た気がします。まだ私に正気が残っている内にこうして自身が経た体験を記しておきたいのと、読者の方にも「朝と夜を整える」行為のメリットをご紹介したいというのが本記事の狙いです。

所々で悦に入るような私は文章は、人によってはご不快に思われるかも知れませんが、それでも思考の発端や、自己改善に至る刺激を抽出可能な道具として幾らか役立てることを願っています。「朝と夜を整える」利点をご自身で体感された暁には、良ければ身近で困っている人々にも勧めてみてください。しかし、こうした情報は一般世間ではどうも煙たがられる傾向にありますから、その場合は遠回しに、間接的にでも…(笑)

私のように社会と繋がれないひきこもりの同士たちが社会復帰を目指すにしても、目指さないにしても、やはり健康を向上させておくに越した事は無いという確信は年々輪をかけて強まってきています。単にひきこもって趣味に没頭するにあたっても、健康で明瞭な意識がそれをより楽しくさせてくれるからです。

本当の"現実世界"とは、いつでもすぐ傍らで私たちを見守り続けてくれている。生まれた時から私たちの存在を肯定し、歓迎してくれている。ただ、近代化に伴う思考や価値観の統制によって、現代では多くの人々がそれを忘れてしまっているだけ。相変わらずそんな気がしています。

このサポートという機能を使い、所謂"投げ銭"が行えるようです。「あり得ないお金の使い方をしてみたい!」という物好きな方にオススメです(笑)