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物語に消費されない生き方(さやわか『世界を物語として生きるために』を読んで)

僕たちは、決まった枠組みの中で生きている。

運命論者ではないけれど、サラリーマンはサラリーマンとして、漁師は漁師として、中学生は中学生として、歌手は歌手として、プロ野球選手はプロ野球選手として。

求められる結果を逆算すると、日々とるべき行動が決定される。

東京大学を受験する高校3年生は、学校に行かずゲームセンターに行くことは許されない。息抜き程度なら良いけれど、どっぷりと娯楽にハマってしまえば、東京大学合格という果実は得られなくなってしまう。

全体の行動から、とるべき行動を引いて、残ったものはどれくらいあるだろう。考えすぎると絶望してしまうけれど、良くも悪くも、手駒で勝負するしかない。それが嫌だったら、あなたが生きる枠組み(このnoteでは「物語」と言う)を乗り換えるしかない。

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物語評論家、マンガ原作者のさやわかさんの新著『世界を物語として生きるために』は、物語という巨大な舞台装置に関する善し悪しを論じた評論作品だ。

ゲーム、アニメ、ポップカルチャーなどの多岐にわたる素材をもとに、人間がどのように物語に取り込まれていくか、あるいは、利活用しているかを批判的に論じている。

いわゆるフィクションに限らず、書かれたものはすべて物語だ。もちろん批評も評論も物語である。だから、僕たちが世界内の何かについて語るとき、それは物語なのだ。我々は物語として、世界を生きざるを得ない。
(さやわか『世界を物語として生きるために』P248から引用、太字は私)

曲解すると、僕たちは物語の中に取り込まれているとも言える。

物語性の高い生き方は、場合によっては楽だが、ふと我に帰ると窮屈さを感じるときもある。桃太郎は鬼を退治することが期待される。HARD THINGSに心が折れて「やーめた!」と言うことは(実質的に)許されていない。

また本書では、ゲームデザイナーの堀井雄二さんの言葉を引用している。

(ドラゴンクエストに関して)まず、何をすべきかがプレイヤーにすぐ分かるように、目的をゲームの冒頭で提示したのです。また、情報がプレイヤーに速く伝わるように、アメリカのRPGに比べて絵が沢山出てくるようにしました。なぜなら例えばこの場面は町なのだ、とプレイヤーが理解するには、言葉で書かれた説明を読むより、町の絵を一目見た方がてっとり速いからなのです。ストーリー性や絵は、プレイヤーにとってよりゲームを分かりやすくするためや、より感情移入をしやすくするために必要であるならば、当然あった方がいいと思います。
(さやわか『世界を物語として生きるために』P109から引用、太字は私)

こういったデザインや装飾を上手く施せる人は、どんな仕事や業界でも重宝される。

良い会社だと認知させるためには、一等地にオフィスを構え、高い報酬を支払い、ランチを無料にし、セレモニー的なイベントを適宜準備し、キャッチーなテレビCM広告を作れば良い。

批評家の東浩紀さんは、以下のようにツイートする。

*

前述した通り、こういった世界の中で、粛々と生きることが「楽だ」と考える人も一定数いる。窮屈さによるストレスよりも、快適さの方が上回るようであれば、物語の中で消費されるように生きることの妥当性は高い。

はみ出す、必要はない。

そして、物語に消費されない生き方とは、おそらく幾つかの社会のルールを軽視あるいは無視することと等しい。

それは法的に逸脱するということではなく、「型」といったことにハマらないということだ。ぐちゃぐちゃなキャリアパスに後ろめたさを感じつつ、それでも「なるようになるさ」と割り切りながら道を拓く人たち。

成功者は目立つけれど、試行錯誤の末に疲弊してしまった人たちもいるだろう。考えてみれば、彼らもまた、「社会のルールから逸脱したという物語」に生きた結果なのかもしれない。

それでもやはり、そんな物語を愛でていきたいと、僕は思う。

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*おまけ*

さやわか『世界を物語として生きるために』の感想を、読書ラジオ「本屋になれなかった僕が」で配信しています。お時間あれば聴いてみてください。

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