ショウペンハウエル『自殺について 他四篇』
8月31日は特別な日だった。
夏休みの最後、宿題が終わらないと悩むことはなかったけれど、毎朝決まった時間に学校に行く(行かなければならない)というのは不自由さを感じていた。
決して学校が嫌いだったわけではないし、行けば楽しいことも山ほどあった。それでも怠惰でいる自由はこの日を境に失われる。その喪失が悲しかった。
2007年3月31日にも似たようなことを感じたかもしれない。学生最後の日。学生から社会人へ。もしかしたらとてつもなく深い沼へ踏み入れようとしているのではないかという、不安。
不安を打ち消すように、牛角でたらふく肉を食べた。あの日の記憶は未だぼんやりと残っている。
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自ら死を選ぶ、悲しい事件が相次いでいる。
自殺に関して語るのは気が引ける。いわんや自殺の是非について語るのは野暮以前の話だろう。人間の生死を取り扱う問題に対して、論点ズレがあってはあまりに無礼だ。だから慎重に言葉を選ばなければならない。
その上でやはり誤解を招くかもしれないが、僕は、誰だって「自殺したらどうなるだろう?」ということは考えて然るべきではないかと考えている。古今東西の書物を読むと、人間は誰しも「死んでしまいたいな」と考えていることが想像できる。「死ぬ」ということは「生きる」と同じくらい思索において避け難いテーマなのだろう。
*
話は異なるが、昔こんな話を聞いたことがある。
テレビをつけていたら蒸発してしまった父親のエピソードが流れていたという。その日はとても天気が良い1日で、誰もが快活に時を過ごせそうな晴れやかな日和だったようだ。家族で団欒をしていたその人は「何もこんな日に行方をくらませなくたってねえ」「もっとどんよりした日や夜中に逃げ出せば良いのに」と家族で話していたという。そのとき無口な父親がボソっと「こんな日だから逃げたくなったんだろう」と呟いたそうだ。団欒の場は、一気に凍りついてしまった……
という話。
かなり前に読んだエッセイに書かれていたので、著者が誰かは憶えていない。
「こんな日だから逃げたくなったんだろう」
じんわりと僕の胸に残っている言葉だ。
このエピソードから「人生はどんなことでもきっかけになり得る」を学び、少しずつ確証を得ている。物事の本質を理解するのに、理由の追求だけでは不十分なのだ。「理由なんてない」。周囲に不可解な言動は、そのようにして行なわれるし、きっと本人にもきちんと理解できていない。
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近代から現代へ、世界史の大きな転換期に哲学を志したショウペンハウエルという哲学者がいる。死後にはニーチェ、ウィトゲンシュタイン、アインシュタイン、フロイトなどに影響を与えた人物だ。
彼は生死について「〜〜べきだ」という意見を述べていない。断定しているのは「自殺することを犯罪行為のように認定している風潮があるが、それは間違っている」ということだ。社会への批判といって差し支えないだろう。
彼は『自殺について』という著書の中でこのように述べている。
いま世界の現象を生み出しているそのものは、そうしないでいることも、即ち静寂のままにとどまっていることもできるに違いないということ、──換言すれば、現在の拡張(ディアストレー)には収縮(シュストレー)ということもなければならないはずだということは、或る意味では先天的に(アプリオリに)洞察せられうることである、わかり易くいえば、これは自明のことである。さて前者は生きんとする意志の現象である。そこで後者は生きんとする意志の否定の現象であるということになろう。(中略)
予め断っておきたいのであるが、生きんとする意志の否定ということは決して或る実体の絶滅を意味するものなのではない。それは単に意慾しないというだけの行為なのである。
(ショウペンハウエル『自殺について 他四篇』P83より引用、太字は筆者)
どのような人間の生活も、これを総観すれば、悲劇としての性質を帯びている。人生というものは、通例、裏切られた希望、挫折させられた目論見、それと気づいたときにはもう遅すぎる過ち、の連続にほかならないことが、知られるのだ。(中略)
幸福な人生などというものは不可能である。人間の到達しうる最高のものは、英雄的な生涯である。そのような英雄的生涯を送る人というのは、何らかの仕方また何らかの事柄において、万人に何らかの意味で役立つようなことのために、異常な困難と戦い、そして最後に勝利をおさめはするが、しかし酬いられるところは少ない乃至全然酬いられることのないような人である。
(ショウペンハウエル『自殺について 他四篇』P98〜99より引用、太字は筆者)
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波のように訪れる「絶望」を全て避けることはできない。
全てのことを想定しておくなんて不可能だし、そもそも「絶望」を回避しようとしたって意味がないかもしれない。ショウペンハウエルが言うように拡張と収縮はセットなのだから。
だとしたら、絶望は所与の要件として受け入れる他ないだろう。厭世的だと言われるかもしれないけれど、それが現代における唯一かつ確実な処世術なのかもしれない。生き抜こう。今日も頑張ろう。
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