半年間、毎日走り続けて気付いたこと
2020年に入ってから、1日も欠かさず毎日走っている。
字面だけ読むと凄いことのように思われるかもしれないが、1回あたりに走る距離は平均で2〜3km程度。家の周りをぐるっと走るだけという日もある。
ちなみに通勤時に「駅まで急いで走る」というのはカウントしていない。それは確かに「走る」と言えるのかもしれないが、何となく「走る」行為としてカウントするには不誠実なように思えるからだ。走れば良いというものではない。(なので僕は「ランニングウェアに着替えて走る」というのを唯一のルールに定めた)
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初めのうちは走ったことをSNSでツイートしていた。誰かに伝えることで、自分にプレッシャーをかけられるからだ。
だけど予想もしなかったウィルスが到来した。緊急事態宣言が発令され、外出に関して人々の緊張感も高まった。走るのを止めようかとも考えた。走ることで、誰かの感情を害することがあるかもしれない。
結果的に、人に迷惑を掛けないように走ることにした。
SNSでのツイートは止め、人が少ない時間帯を見計って走るようにした。バフを使用して口元を覆いながら走った(苦しかったけれど仕方がない)。
なお現時点で、特に東京は「感染拡大要警戒段階」と見做され、まだまだ外出に関して警戒心が解かれているわけではない。このnoteを読んだことで不快感を抱く方もいるだろう。
迷ったが、それなりに長い期間継続したことによる「気付き」をメモに残したいと思った。習慣化ということに関して、何かしらの示唆を感じてもらえたら嬉しい。
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ただ結論から言うと。
半年間、毎日走り続けたものの、走ることは「習慣」になっていない。
「習慣」をWikipediaで調べてみると、
習慣とは、長い間それを繰り返し行うことで、あたかもそうすることがきまりのようになったことである。基本的には、行動、身体的な振る舞いを指しているが、広くは、ものの考え方など精神的・心理的なそれも含みうる。
(Wikipediaより引用、太字は私)
とある。
「あたかもそうすることがきまり」。確かにルールとして走っている側面もあるが「あたかもそうする」という心持ちではない。「あたかもそうする」とは、なかなか凄い表現だ。その域には達していない。
これを踏まえると、僕にとって習慣と呼べるのは「読書」だけだ。
何も考えずに本のページを繰り、文字を追う。「いつ読んだか」「どれくらい読んだか」を数えることもない。1000日チャレンジと銘打つ必要もない。
今日本を読まなかったからとて罪悪感を抱くこともない。今日読まなくても明日はきっと読むからだ。それくらいで習慣が途切れることはないと自信を持って言える。
今日走るのを止めたら罪悪感を抱くし、明日走るという確信は持てなくなる。僕にとって、走ることはまだ習慣化していないのだ。
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習慣は「それなりに長い」ではなく「長い、長い」時間をかけて身に付けられるものだ。
小学生にも分かる「気付き」かもしれないけれど、少なくとも半年間継続したからこそ得られた「気付き」でもある。
意識が無意識に変わるほど、「走る」が僕の生活に溶け込むことがあるのだろうか。
その答えは分からないし、その答えを知るためには、今日も今日とて走らなければならない。(今朝は既に走りましたが)
記事をお読みいただき、ありがとうございます。 サポートいただくのも嬉しいですが、noteを感想付きでシェアいただけるのも感激してしまいます。