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「お父さんがいなければ / 夫がいなければ」なんて、言われる日が来るかもしれない。

ちゃこさんのnoteはいつも大胆で繊細だ。ちゃこさんが選択する言葉に抉られるような痛みを感じながら、不思議と良薬のように身体に浸透する感覚。何に喩えるのが適切だろう。言葉が浮かばない。

「インスタ映え」なんて使い古された言葉はあるけれど、文章が本来持っている力の強さ / 柔らかさを、ちゃこさんは教えてくれる。「note映え」って呼ぶのは無粋かもしれないけれど、数多くのエントリが流れるタイムラインの中で、いつもちゃこさんのエントリは輝いている。

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僕が言うまでもなく、世の中は「言い訳」に溢れている

結婚したとき僕ら夫婦は、「『未来をつくる』ためにお互いがやりたいと思うことを尊重しよう」と誓った。だけど、現実を生きていると逃避したくなるような重い厄介ごとが頭をもたげてくる。嫉妬もする。「僕があと五年若ければ」なんてことが口を衝いて出そうなときもある。なるべく口に出さないようにしても、つい妻に愚痴をこぼしてしまうこともある。性別、年齢、出自、国籍、外見、脳みその最大積載量、学歴、職歴、その他諸々……。それが僕の「強み」になることだってあるのにね。

元・プロ野球選手の黒田博樹さんの著書『決めて断つ』を読んだことがある。「決断を下すということは、多くの物事を背負い込むこと」という主旨だと記憶しているが、その重荷に足がすくんで「言い訳」してしまうことがある。その「言い訳」に家族を巻き込んでしまうことがどうしてもあって(「どうしても」という言葉は後付けだ。往々にして無自覚に家族を巻き込んでいる)、それって僕が目指す理想像から著しく乖離しているなと、ちゃこさんのnoteを読んで気付かされた。

だから当時も「子供のために」その仕事を続けている、とわたしは言い聞かせていた。いや、「子供のせいで」この仕事が辞められない、と人に言うことは許されないと分かっていたんだ。(中略)
保育園のお迎えの時間に、小学校の帰宅時間。不可能と無茶が交差する脳内で、新しい世界に飛び込む勇気がない。
そして、目の前の選択肢を受け取れないことを、あろうことか子供のせいにしてしまった。汚い本音が出てしまった。「子供がいなければ」なんて、言っちゃいけないのに。
何かを犠牲にした上での欲張りは、わたしの本当に悪いところだと思う。
(ちゃこさんnote「【子供がいなければ、なんて言うな】」より引用)

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やや悲観的に書いてしまったかもしれないが、家族の名誉のために補足しなければならない。僕はこれまで「新しい世界」に進むことを、家族から猛烈に応援してもらっている。

二年半前に大企業からベンチャーに転職するとき、憧れの経営者の経営ゼミに参加すると決めたとき、資格取得のため勉強する時間をもらったとき、人事仲間と場づくりを企画しようと思ったとき……。

重荷に萎縮して、現状にSTAYすることもできた。

だけど家族は僕の考えに理解を示し「あなたの決断なら」と背中を押してくれた。もちろん浅慮に過ぎる決断には率直な指摘をしてくれる。そのバランス感覚に何度救われたことか。家族って良いなって、心から思っている。

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引用したちゃこさんのエントリでは、終盤に「ママがいなければ」という強烈な文章が出てくる。胸が苦しくなった。

バスを降りてもまだ15:30だった。息子の習い事のミニバスまで時間がある。一度家に帰って車でまた出ようと、わたしは自宅までの坂を歩いた
「ママがいなければ」
わたしがもし反対にそんなことを言われたらどれほど悲しいだろう。「ママがいなければできたのに」「ママがいなければやってみたかった」なんて、そんな言葉は想像するだけで辛い。わたしがしたのはそういうことだ。
(ちゃこさんnote「【子供がいなければ、なんて言うな】」より引用)

胸が苦しくなった。と同時に、ちゃこさんの文章を引用して、僕自身が何らかの考えを示したいと決意させてくれた言葉でもある。

大人を演じる方法は、頭をぶつけながら、ちょっとずつ身につけてきた。でも人間を演じることはできない。人間として生きることは、未来に向かって真摯に生きていくと決断することでもある。「僕が坂本龍馬だったら」「僕がスティーブ・ジョブズだったら」なんて、偉大な先人を引き合いに出す必要はない。

未来をつくる人生でありたい。
息子にとって良き父でありたいし、妻にとって良き夫でありたい。そして真摯な人間でい続けたいと思う。

ちゃこさん、ありがとう。
ちゃこさんの人生も、陰ながら応援しています。


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