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撮れたもの/撮れなかったものは何か。(映画「成功したオタク」を観て)
ドキュメンタリー映画を鑑賞すると、職業柄、「取れ高」のことを考えてしまう。
インタビュアーとして取材したときに、限られた時間の中で、自分が望む情報(「回答」といっていいかもしれない)を引き出さなければならない。
相手は、おしゃべりな人もいれば、無口な人もいる。専門用語をかみくだいて説明してくれる人もいれば、難解なまま回答する人もいる。想定していた段取りで取材を終えることもあれば、制限時間をオーバーしているのに十分な取れ高を得られないこともある。
「映画(映像作品)」として、長い時間をかけて取材するドキュメンタリーも、「取れ高」を求めなければならない。追いかけていた「推し」が犯罪者になったことをきっかけにカメラを回し始めたオ・セヨン監督にとって、“本当に”自らが望んだ通りの「取れ高」を得られることができたのだろうか。
「成功したオタク」
(監督:オ・セヨン、2021年)
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できた/撮れたこと
①推しの功罪について、具体的な証言を獲得した
「推し」には功罪があるということは周知の事実だが、「推し」をめぐって得も損もしてきた人たちの証言を記録することができた。
中にはハッとするようなコメントもあったし、当事者だからこそ説得力のある証言は、本作の“背骨”として力強く機能していたように思う。
②世代を超えて、「推し」を捉えていた
僕が一番面白かったのは、オ・セヨン監督の母の証言をとったことだ。
母親の「推し」は、犯罪行為を糾弾された後に、非難に耐えきれず自死を選んでしまったのだが、母親はその選択に憤慨していた。
「推し」というのは、特定の世代のみで限定される話ではない。国境を超えて、そして老若男女問わず、語り合える普遍的なテーマなのかもしれない。
できなかった/撮れなかったこと
①「嫌疑不十分」を想定せずに撮影を行なっていた
これはオ・セヨン監督にとって誤算だったのではないか。
嫌疑不十分の人物に対する発言は、全てその人物の名前が「ピー」音にて伏せられていたのだ。そのことによって、発言者の証言が「何に基づいているものなのか」がハッキリしなくなっている。
もちろん、これは韓国の視聴者であれば、嫌疑不十分であったとしても「あいつは限りなく黒に近い」といった形で説得力を持たせることもできよう。だが、映画のプロダクションとして韓国国外にも流通する際には、国内固有の事情は伝わりづらいわけで。
アカデミックな論文であれば、色々な発生可能性を想定するものだが、オ・セヨン監督はある意味で見切り発車で撮影を開始したのだろう。それゆえのエネルギーは認めるが、粗さがどうも目についてしまい、ドキュメンタリーとしての強度はだいぶ下がってしまっているように思う。
②“推し”ではない何かの可能性
菅付雅信の編集スパルタ塾卒業生で構成されている「EDITORS REPUBLIC」という試み。僕もゆるく関わっており、2023年7月にSubstackで「『推し』と編集」というテーマのSubstackを展開した。
そこで「『萌え』から『推し』へ」ということが語られていたのだが、なるほど、時間軸の中で「何かを好きである」という行為の特徴は変化しつつあると気付いた。
オ・セヨン監督は、結局、「また新しい推しにハマっている」といった発言をしている。推しを巡る良し悪しを語り切ってなお、「推し」という概念そのものにとらわれているのは、やや近視眼的ではないだろうか。
萌えでもなく、推しでもなく、「好き」を象徴し得る次なる概念は何か。せっかく「推し」について深掘りしていたのだから、新しい仮説を提示してほしかった。
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そもそも「推し」という文化にいまいちコミットできない僕は、インタビューに答えていた女性たちの気持ちを理解することはできたものの、心から共感することはできなかった。いち編集者として、マクロでみたときの「推し」という現象への興味は多少あれど、どこか一線を引いた感じで身構えてしまうのだ。
「推し」をめぐる議論は、そこかしこで行なわれている。だが意外に、自らが当事者となって関与しているケースは少ない。身近な友人たちが「推し」という現象をどう感じているのか。本作を鑑賞して、僕自身もリサーチしなければと思った。
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