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短歌はいいぞぉ

詩が好きだと言いました。

あれ? そういえば全然詩、書いてなくない? 

まぁ焦るな。いろいろあったんだ。ちょっと言い訳をすると、文学というのは、余裕がないとできないもので。
すなわち、焦っては良い文章というのも降りてこないものです。数ヶ月間焦りっぱなしだったので、詩も満足に書けていませんでした。エーン。

今は、一山超えて、ちょっと一息ついているところ。また山が出てきてそろそろ行くか……と腰をあげそうでもあるところ。
ので、そろそろあの時と変わらないペースで文章が降りてきそうな予感がしています。

山は越えないといけないものですが、まぁそれもまた楽しいものになりそうです。だって今はもう余裕綽々なので!(のんびりすぎるのもいかがなものかもしれないが)

小説は今までずっと書いてきたものだから、それなりの心理状態でも書けていたわけです。物語があれば書けちゃうのだから。

もちろん頭のなかのストーリーを素描きすればいいというわけではない。のちのちの推敲が大事であって。こっちの作業に神経をすり減らすのだ。書き出しの原稿をやっているときは楽しい気持ちしか起こらない。

しかし詩はそうはいかない。短い言葉にいかに世界を詰め込められるのかがキモになってくるのだ。
いわば、書き出しの段階から推敲が始まっている、みたいな感覚でして。そりゃー余裕がないとできませんわな。

短い言葉といえば!

日本には昔から短歌などという文化がありましたね。百人一首もあるし、学校の授業でも習った。
5、7、5、7、7のリズムで表現される世界がそこにあり、詠み手が解釈していく。
定まった形があるようでないのが、短歌です。詩よりも枠組みが決まっていて、ただ小説よりも言葉を圧縮しなければならない。美しい文学です。

短歌というものは、もともと知っていたものの、なかなか手を出すことはありませんでした。

なぜなのか。理由はかなりクソガキだ。授業で教えられた「短歌の詠い方が嫌いだったから」。である。
学校というものがずっと嫌いだったのでね。
ええ、仕方ないんですこれは。しかも俳句と短歌ってセットでやるじゃないですか。
大抵。うちの学校はそうだったんですけど。
しかも、「書くのが嫌いな人は俳句、ちょっとチャレンジしたい人は短歌を詠んでみましょう!」みたいなノリ。なんだか、文学ってそういうものじゃない気がするのですけど〜と、生意気な文学小娘は腐していたのだった。

とりあえずあの忌まわしき授業がはじまって、黒板に「短歌と俳句」とか書いてあった記憶はある。
教壇に立った先生は、なんとなくの説明を始めます。

俳句は季語があって、短歌はなくて、うんぬんかんぬん。
さて、はい、じゃあ書いてみましょう!みたいな感じで細長い紙を渡されて17文字と31文字を書かせられる。

書けるかよぅ!

作文も正直苦手でした。テーマに沿ってないと、「なんでこう書いちゃったの?」とか言われるし、先生の意図した通りに書かないと「こんなに暗い文!」とか普通に怒られてたし。短歌も俳句も例に漏れず。

やれ花火が綺麗だの、おばあちゃんが優しかっただの、蝉の声が聞こえるだの、風鈴の音が涼しさを感じさせるだの……。

なんというか、「小学生の短歌や俳句は無邪気でキラキラしたものだ」と言われているような気がして。そんな期待から先生は書かせているのかいと思うと、余計に書きたくなくなってしまって。

ハリボテのキラキラには「うん!」と言い、どろどろの本心を曝け出したものには「ええ……」とちょっと引く。表情で訴えかけてくるこの感じ。やめてくれよぉ。

自由に書かせてくれないなんて、思想統制か??

とかなんとかほざく可愛げのない子供だったので、大人になっても短歌や俳句は「よくわからないもの」として距離をとっていました。思考統制の道具とまで思っていた。極端なのである。

自由なそれを私は知らなかった。
だが、その認識は氷が溶けるみたいに崩れていったのだ。

「私ね、あなたに短歌を勧めたくって」

そんな投げかけから、とある人に短歌という文学を教えていただきました。
そのとある人は、半年ちょっと前から親交のある人でして。
優しいし、笑顔がものすごく素敵な「地上に舞い降りた天使」みたいなお方。めちゃくちゃ大好きな方です。
そんな大好きな人から何かをオススメされたらさぁ、そりゃ気になっちゃうじゃん。
私にもそれなりに人間の心理を持ち合わせているので(そこそこにチョロいので)、「好きな人の好きなものは好き」理論が発動しちゃったわけです。
気がつくと、短歌と私の距離が一気に近くなったという。

短歌は…
・日常を捉えるカメラみたいなもの
・風景や感情を言葉で切り取る
・専門知識は必要ない。ただ、こころの向くままに詠むだけ
・無意識に積み重ねた気持ちを吐き出す力も持っている

授業では全く習わなかった短歌の面白さがそこにあった。
今まで私が偏見によって捉えていたあれらは一体何だったのだろう。

特に短歌をカメラと表現するのが魅力的ですよね。そんなカメラ、私も使いたくなっちゃうじゃないですか。
実際にその人は、私に「今考えている短歌はね……」と、指を折りながら文字を数えて実際にその人の描きたい風景を私に話してくれました。

なんと美しい時間!!

その短歌から、まるでその人の目から光景が描き出されるような、そんな感覚がありました。
一人で小説を読む時、一人で詩集を開く時とは違う感覚。なんだろうかこれは。

二人で、一つの世界を共有する時、新しい言葉の可能性が開かれていくんでしょうか。
だからきっと、短歌には歌会があって、互いに歌を詠み、読み、解釈し合うのでしょう。

詠むって文字もまたいいですよね。このオシャレさ。文字を「読む」こと、そして描くのではなく「詠む」という言葉の選択。「うたう」とも読めちゃうし。
そして「ながむ」とも読んじゃうらしく。ながむという語感もまた美しいです。こりゃとんでもない世界だっぴ!

短歌に季語がない。そして恋の歌が多い。詠み手から湧き上がる感情とそこから見える景色を融合させて表す歌は、どう考えても美しく、また切ないものなのである。

感情が昂るのは、大抵誰かを想っている時だったり、とんでもなく綺麗な景色を見た時だった。風景と情念とが調和する時、美しい歌が生まれるのだ。
人を想うのは必ずしも恋だけではありませんが。でも、まだまだイマドキの歌にラブソングが溢れているのにも同じような理由がありそう。

そんなこんなで私は短歌の魅力に取り憑かれた。

調べれば枕詞や掛け詞なんて懐かしい言葉が出てくる出てくる。なるほど、そういう使い方があったのか。

学校の授業がとんでもなく嫌いだった私。過去の自分と再会した気分。

よくわからないまま作った短歌。耳障りの良い、中身の空っぽだった5、7、5、7、7。
先生の望んだハリボテのキラキラは、もう覚えていない。

ただ、あの時の気持ちはこびりついたまま。空虚で冷たい視線に耐えながら書いた俳句は、あまりにもつまらない。小学生らしい、無邪気な感情を表現しようとしてつくった短歌は、あまりにもちぐはぐだ。

短歌の楽しさを知った今ならきっと、国語の教科書を見ても楽しいだろう。
過去との出会い直しも果たしてくれた短歌に、そして素晴らしさを教えてくれたあの人へ感謝を。

それからというものの、現在に至るまでその人と二日に一回のペースでお互いに詠んだ歌を送り合っています。

いまのところ、私の短歌はどこを探してもその人にしか届いていない。お互いの歌の面白さ、気付いたところを共有して、また1日を始めるのだ。

その人しか知らない私の言葉があるというのは、なんだかちょっと、嬉しい気持ちになるもの。お手紙の楽しさを再認識した気分。

私がその人だけに綴る言葉だから、想いも世界も込められるのだろうか。
その人も、同じ気持ちだったらいいな。

また、こうやって歌を詠み合う人たちのことを「歌友」と呼ぶらしい。ウタトモではない。「かゆう」だ。

ま~~~~~た日本語の美しさに気付いちゃったよ!!
「盟友」「朋友」連帯感を連想する「〇〇ユウ」の中で、「歌友」には自由さを感じる。

必ずしも一体となっている必要はない。それぞれ自由に見て感じて想ったことを歌にする。それが切れない糸で続いていくのが、とても素敵で。美しくて。

その人との確かにある繋がりを、歌に感じるのだ。
そんなわけで、ひとつ。

友と友二本に絡まる糸なれど意志もつれ解け意思みつけ結ぶ

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