開拓者精神を再発見する(2022年10月)

高校生との里山開拓

2022年9月25日、台風一過でよく晴れた日曜日に、杉並区の児童養護施設・東京家庭学校の高校生とともにあきる野市菅生の山林に行って開拓作業を行いました。今回の参加者は高校生9名、職員4名、当団体メンバー5名の合計18人でした。

東京家庭学校さんとのご縁は、2019年に校長の松田さんが講師を務められた子どもの貧困セミナーに私が受講生として参加したことに遡ります。研修後、直接訪問や里山現地紹介の機会もいただきまして、その際に伺いました東京家庭学校の創設者・留岡幸助の話しをよく覚えています。

日本の社会福祉の先駆者とも称される留岡幸助が、身寄りのない子や非行少年のために、東京巣鴨に家庭学校を設立したのは1899年のことでした。列強による植民地化や巨大資本による独占寡占が進み、社会に大きなひずみが生まれて弱い立場の人のところで顕在化した時代でもありました。東京や北海道の荒れた大地を自ら伐り拓いて家庭学校を作り上げるなかで、自然が子どもたちを感化する力に着目し、「土地は人を化し、人は土地を化す」という言葉も残されています。

私はこの話を伺いまして、こことならきっと意識を合わせて一緒に活動を続けていけるはずと確信しました。ただ、松田さんからの依頼はちょっとハードルが高くて、ぜひ荒れた山林を自分たちの力で一から伐り拓いていきたいというものでした。その意図するところは、今や施設の子どもたちは公的な支援が行き届き恵まれすぎた環境にあって、退所後独り立ちしてから苦労する前に、額に汗した者だけが得られる達成感や喜びを体験させたいというところにありました。ところが、私たちの八王子市美山の里山はすでに他の施設とともに10年近く開拓を続けて、道や広場、設備もすでにかなり作り上げていたので一からという訳にはいかなかったのです。

そこであちこちの山林への働きかけをしてみたのですが、不在地主化が問題となる今、地主と連絡を取ることさえ難しい状況でした。それでもめげずにご縁をたどってあきる野市菅生の方々の協力を得て、今年ようやく私たちの活動にぴったりな山林と巡り合うことができました。そこは、私たちの運営する児童養護施設のための里山付き別荘「さとごろりん菅生」から、約10分ほど川沿いや道路を歩いて山道入口に至り、さらに15分ほど山中を歩いて到着する小高い尾根です。アクセスがよくて、伐り拓けば見晴や風通しのいい平坦な活動場所が確保できるところが気に入ったのです。早速、地主の西多摩霊園様、村木様と調整してご理解とご協力を得て利用許可をいただき、数回の下見や準備作業を経て、今回の高校生との開拓実施にいたりました。


木の伐り方

この山林の山道やその周辺については、すでに地主が業者に依頼して下草刈りがなされて立ち入りやすくなっていました。ただ、私たちが活動拠点として目星をつけた尾根は、山道から外れて隣地の柵で行き止まりになっていたので、一帯が雑木に覆われていました。今回はそこを刈り払って私たちの拠点を拡げることにしたのです。

現地に到着して一人に一本ずつのこぎりを渡し、まず私から木の伐る際の注意点としてこんなことを説明しました。

・細い木から試す

大きな木にいきなり手を付けず、細い木から試して伐るようにします。そうすればどうすれば安全に伐れるか自分で分かってくるからです。はじめのうちはせいぜい自分の両手で握れるくらいの太さ程度の木までにすることを勧めました。

・木の倒れる方向を想像する

伐る前に樹形をよく見てどちらに倒れそうかをしっかり想像します。木は周りの木々と競争して日光の届くところに枝葉を伸ばしています。いわば上半身の枝葉は無理な体勢にあって下半身の根っこで踏ん張って立っているのです。枝ぶりをよく見て上半身の重心がどちらにあるのか想像すれば、伐ったときに倒れる方向は大体判断できます。

・受け口、追い口を作る

倒す方向にまず受け口、そして反対側の少し上から追い口をつくって伐っていきます。この時、受け口は木の重心があって倒れやすい方向に入れるのが基本ですが、伐り倒したときに隣の木に引っかからないようにすることも必要です。受け口を直径の3分の1程度まで伐り、あとは追い口側から残りを伐っていきます。

・刃が挟まれないようにする。

木を伐るとき、のこぎりの刃が挟まって動かなくなることがあります。この状態は木の重心が受け口側ではなく追い口側にあって、伐るほど木の重さがのこぎりにのしかかって挟まれてしまうからです。こうなる前に受け口、追い口の方向を見直すのが基本ですが、もしのこぎりが挟まれてしまったら別のノコギリで切れ込みを入れてノコギリを外すことを優先します。そのまま別のノコギリで木を切り倒してしまうと、挟まれたノコギリが飛び跳ねて危険だからです。

・隣の木にかからないよう注意する

伐り倒した木が隣の木にひっかかって、枝葉がからんで動かず不安定で危険な状態になってしまうことがあります。これを係り木といいます。そうなってしまったら、手間はかかりますがロープや手をかけていろんな方向に押したり引っ張ったりして倒すしかありません。

・周りに声をかける

木は下から見上げて想像する以上に高さがあり、伐り倒すと想像以上に遠くまで届いてしまいます。また生木は水分を含んで重く、他の人にあたると大きな事故にもつながります。そこで伐り倒す前にはまわりにかけ声をかけて十分すぎるほどの距離をあけて事前に避難してもらいます。

・伐った木の使い方を考える。

伐った木は処分すべきごみなどではなく、里山の立派な資源です。幹の太い部分はいろいろと使えるので、枝を落として地面に直接触れないところに横倒しして乾燥させておきます。枝葉のある細い部分は斜面部分に平行にまとめて並べておくと、落ち葉や土の流出を抑えて生き物たちの住処にもなります。

実際に木を伐るときの様子を描写するとこんな感じになります。倒す方向を見定めて、受け口を作り、反対側の追い口側から力を入れて伐っていきます。木は中央が一番幅があるのでノコギリの刃が木の中央に至るところが一番の頑張りどころです。刃がようやく中央を超えたあたりで一休みして、木の幹を押してみます。すると、木全体のバランスが変化していることが感じられます。これは伐ったことで木の重心が移動し、幹の残りでようやく支えている状態です。さらに伐り進めると木全体が自らゆっくりと傾き始め、切り口からキシキシ、やがてメリメリという音が聞こえるようになります。木の繊維が自らの重さで断ち切られていく音です。やがて自重が乗って自ら加速度的に傾いていき、最後は一気に倒壊していきます。

ただ、私としては上記のような説明はできるだけ簡単にして、あまりこうすべきなどと言わないようにも心掛けていました。私自身こんな説明を誰かに受けた訳ではなく、あれこれ言われるのも好きではないからでもありますが、なんといっても自ら試行錯誤したときにはじめて、里山の知識や作業のノウハウなんかよりももっと大切なことが見出だせるはずと考えているからです。

説明の後、大人と高校生が3人で1チームとなって、みんなおそるおそる木を伐り始めました。ある人は仲間とともにわいわいと、またある人は一人でもくもくと、3時間半ほど思いっきり汗を流して開拓作業を進めました。やがて、うっそうと小径木の生えていたところにぽっかりと空間ができて、いよいよ私たちのふるさとづくりが始まったのを実感できるようになりました。

作業の後は、ふもとのさとごろりんに戻って休憩タイムです。それぞれハンモックに寝転んだり、小川で疲れた足を冷やしたり、冷たいおやつを食べたりと、しばし自由な癒しの時を過ごしました。

休憩の後は、みんなで集まって意見交換の時間です。高校生のみなさんひとりずつしっかりとこんな感想を伝えてくれました。

「別の木に引っかかった木をロープなどで引っ張って倒せた時には達成感があった」

「木を伐った後のバキバキという音がすごく聞こえて気持ちよかったし達成感を感じた」

「木の伸びている方向を考えて伐ると倒れやすいことが分かった」

「遊具(ブランコ)か机など切り倒した木を利用して作りたい」


開拓者精神はすでに心の中にある

帰りの車中、私は無事予定通り実施できた安堵感と達成感に包まれつつも、松田さんから作業の合間に伺いました児童養護施設を取り巻く状況について思いを巡らせていました。

・今年の児童福祉法改正で児童養護施設にいられるのは原則18歳までという規制が撤廃されたこと。
・大舎制から小舎制へ、さらなる小規模化(児童定員は1か所6人から将来的には4人へ)へと促す施策が進んでいること。
・こうした施策は一見支援が手厚くなったように見えるけれどが、現場にはひずみを生んでいること。
・ホーム毎にばらばらとなりさらにコロナ禍もあって児童はおろか職員さえみんなで集まる機会がなくなったこと。
・新たな児童を受け入れる余地が減り一時避難対応さえ難しい状況が生まれていること。

社会的養護のあり方が大きく変わりつつある今、私たちの取り組みはいったい児童養護施設にとってどんな価値をもつのだろうという疑問が頭の中をぐるぐると駆け巡るのです。

所詮、私たちの里山開拓は各児童養護施設にとっては1~数か月に1回程度の活動でしかありません。児童養護施設のための里山付き別荘「さとごろりん」の方も、休暇や緊急時など非日常的な環境提供にとどまります。だから、子どもたちにどんな場が提供できるかにとどまらず、それが子どもたちの心にどんな影響を与えるのかまで突きつめて考える必要があるのです。

私の頭に思い浮かんだのは、のこぎりで木を伐り倒すときに感じるあの感覚でした。自然の中に入り込むなかで心の中にみなぎってくるやる気。想像を超えて深く自然とのつながりを感じられたときの喜び。無意識のうちに抱え込んでいた心のもやもやや壁がいつの間にか消え去っていく爽快感。これは、もしかしたら、猟師が熊を仕留めたときの感覚に似ているのかなと想像しました。それは明らかに周りの大人たちが教えてくれるようなものではなく、私たちの内面から生じる心の本源的な作用にも思えました。

こんな感覚を取り戻せるところにこそ、私たちの活動の最大の価値があるのではないかと思えたのです。これはおそらく、いや間違いなく、私たちが現代都市社会で過ごすうちに見失ってしまっていた感覚です。それはもしかしたら、私たちの先祖から受け継がれてきた開拓者精神が今も心の中に存在することの証明なのかもしれません。

つまるところ、私たちは荒れた山林の開拓を通じて何をしていたのかというと、「自らの中に開拓者精神に再発見していた」のです。ここでいう開拓者精神とは、困難に直面してもあきらめることなく、自由に発想して、自発的に行動し、時に楽しみさえ見出してながら乗り越えていく鷹揚たる心のあり方のことです。私たちの活動にあっては、自らの開拓者精神を再発見するこそが、社会が何十年にもわたって汚い・危ない・面倒・価値なしと目を背けてきた放置山林に新たな価値を見出させ、そこに自ら進んで喜んでかかわり続けさせる原動力となっていたのです。

読者の中には、木を伐ることに喜びを感じるなんて不謹慎と思う方もいるかもしれません。「自然の命を粗末にしてはいけない」「自分のストレスのはけ口にするなんて言語道断」「仕事ならともかく自然遊びで伐るなんてありえない」といった考えもあるかもしれません。

でも、私たちは木を粗末にしたりお遊びしたりしている訳ではありません。それどころか、目先の経済的利益や思いつきの環境保全対策のために木々を伐ったり放置したりしてきた従来のやり方とは一線を画しています。私たちは、できる限り経済など介在させることなく自らの力でふるさとというプライスレスな場をつくり上げ、末永く共生していこうと本気で取り組んでいるのです。伐った木はツリーハウスなどの設備の素材として自らのふるさとづくりのためにその場で有効活用します。それこそが私たちなりの木への供養方法でもあるのです。

さらにいうと、私たちのやり方というのは所詮は素人の手作業なので、太い木まで皆伐することなんかできません。それでももし伐りすぎてしまっていたら、その時に反省をすればいいと思っているのです。数か月で細い木々に覆われ、数年も経てばまた元の状態に戻っていくのですから。そんなふうに現場で自ら試行錯誤することこそが、本気で共生を考えて行動することを可能にするのです。

なぜあえてこんなことを書いているのかというと、今あまりにも多くの大人たちが開拓者精神をすでに喪失してしまっていることに危機感を抱いているからです。自然とのかかわり方といえば、先生の言うことや教科書やネットに書かれている情報が正しいと思い込むばかりで、自分の知らなかった現実を直接よく観察して自らかかわり試行錯誤していく姿勢なんて完全に欠落してしまっています。もっというと、社会とのかかわり方についても、自分の人生を試行錯誤しながら伐り拓いていくことなんて、リスクばかりで時間の無駄とばかりにできるだけ避けようとします。

そんな大人たちの何が問題なのかというと、自分が無意識のうちに自己矛盾した状況を生み出してしまっていることに気づけないのです。大人たちが子どもたちと接するときによくありがちなのは、教えてあげよう、やってあげようと進めてしまい、実は子どもたちのやる気と試行錯誤の機会を奪ってしまうことです。昔は自分もしていなかったことを子どもたちに対してはこうすべきと頭ごなしに押し付けようとする大人たち。普段は環境破壊なんて他人事のような生活を送っているくせに、自然の中に入ったときや子どものいるときばかり分別あるエコロジストを気取ろうとする大人たち。他の生き物を殺す汚れ仕事はお金を出して他人にやらせているのに、自分はさもクリーンに生きているような顔をしたがる大人たち。

もちろん私自身も、強く意識していないとついそんな行動をしてしまうちっぽけな大人たちの一人なのです。自戒を込めて言うなら、そんな大人たちの薄っぺらい言動こそが、子どもたちの心のなかに息づいていた自ら生きんとする力に蓋をし、今ここで生きている実感を見失わせているのです。だから、せめて私たちの里山開拓では、子どもたちの前でも率直に正直に肩ひじ張らずに大したことは何もできない自分をありのままさらし、子どもたちと一緒になってどうしたら自然とつながっていけるか自ら試行錯誤するところからはじめていきたいのです。

そんな試行錯誤もせずに、自分たちの活動が環境や児童虐待の問題にとってどうあるべきかなんて議論することに大した意味はありません。そこから始めてしまうと薄っぺらな頭の中だけで組み立てた机上の仮説にたどり着くのがせいぜいです。もし私たちの活動のあるべき姿やなすべきことが議論の中だけで決まってしまうようになったら、その瞬間に、開拓者による精神的活動ではなく奴隷による単純労働作業に成り下がってしまうとさえ考えているのです。

開拓者精神ときくと、もしかしたらネガティブな印象を持つ人もいるかもしれません。戦前の満州開拓や、戦後も続いたブラジルなど海外移民による原野開拓は、国家や巨大資本が無数の人たちの人生を翻弄してきた苦難の歴史に染まっています。片や、戦後の日本にあっては農村から都市に人々が集まって奇跡の経済発展を遂げ、周りからいいと思われるように都会でスマートに楽して快適に生きていくことが一番といった風潮もあふれています。もはや、開拓なんて言葉そのものが死語になってしまったようです。

でも、私にはそんな現代の風潮というのはどこか上滑りしていて、地に足がついていないように見えているのです。どこか打算と束縛が裏に隠されていて、また国家権力だか巨大資本だか知らないけれど誰かの見えない指図によって自分の心まで操縦されてしまうような嫌な予感までしてくるのです。だから、そんなひ弱な存在より、もっと自分の足で大地を踏みしめてどっしりと立つ一開拓者にあこがれをもつのです。

誰でもきっと、荒れた山林に入って自ら木を伐ってみると、都会の汚れた空気を吸って何十年も過ごしてきた自分の心の中にもまだ開拓者精神のかすかな息吹が聞こえることに驚きを感じることでしょう。だから、私はこう考えるのです――大切なのは、自分自身が生命あふれる里山に自ら足しげく通って、生きている木と生きている自分がいまここで向き合って深くつながっていることを実感すること。困難に直面してもあきらめることなく、自由に発想して、自発的に行動し、時に楽しみさえ見出して乗り越えていく鷹揚たる心を持ち続けること。それを繰り返すうちに、はじめて今ここで自分が生きていることを実感し、やりがいや生きがいを感じ、社会の現実だって変えうるような真の開拓者となっていけるはず。

開拓者精神は誰かに教えてもらうようなものではありません。ただ単に、すでに自分の心の中にある存在に気づけばよいのです。そして、開拓者精神を目覚めさせることによって、私たちはこころや社会の分厚い殻を突き破って新たな世界を伐り拓いていけるのです。どんなにか弱い小鳥の雛であろうとも、誰かに卵の殻を割ってもらおうなんてしません。自らの力で固い殻を内側から突き破って生まれ出るのです。松田さんが求めていたことも、留岡幸助が伝えたかったことも、一言でいえばそんな「開拓者精神」だったのではと想像するのです。

こんな思索を巡らせてみて、改めて前述の高校生の感想を読んでみますと、彼らの心の中にも元々あった開拓者精神が今ここで目覚めつつあるのを感じます。里山へ行く道中、高校生の一人が帰宅部で趣味も特になしといっていたので、私からは「里山」をお勧めしました。里山には自分自身を見つめるきっかけに加えて、DIY工作、写真、動植物観察、栽培、登山、料理はじめ様々な世界を拡がるきっかけもあります。また、別の高校生から当団体に入会できるのかという声があったと聞きましたが、もちろん18歳になったら喜んで会員として受け入れます。施設の子どもたちの先輩として、また施設側との連携担当として、何より一緒に創り上げたふるさとに通い続ける仲間として、一層活躍してくれることに期待しています。

私たちは、現代都市社会を捨てて里山に入り込んで原始の生活をすることなんか目指している訳ではありません。そうではなくて、現代都市社会が目を背けて放置してきた荒れた山林を、今一度自らの生活の一部として取り込むことによって、もっと心豊かな新しい人生、もっと心豊かな新しい社会を自ら創っていけるのではないかと考えているのです。そしてそれは、自らの心の中に眠っていた開拓者精神を再発見することから始まるものと信じているのです。

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