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【現代文】弱き善 悪ありてこそ 光るかな

 さて、2作目の粗筋は、私の記述によると次のようなものだった。
 「前衛画家としても評判の高い小学校教師の山口には、太郎の父で絵具会社の社長である大田氏のバックアップがあった。大田氏は立派な商人であるが、家庭人としては失格で、夫人は孤独からの救いを太郎に求め、その結果、かえって善意による過剰なしつけが太郎の生活を苦しめるだけであった。しかし、太郎は主人公『ぼく』の画塾に通うようになってから、のびのびとした子供になっていく。そんな中、アンデルセン童話に基づいて描かせた児童画をデンマークと交換しようという話が持ち上がるが、ここにも芸術に理解のない大田氏の偽善介入が加わる。子供達の自由な発想を大切にしたい主人公は、コンクールの終わりに堂々と、太郎が自分一人の力で描いたチョンマゲ姿の裸の王様の画を見せ、大人達の勝手なふるまいが子供達の創造性を束縛していることを、お調子者の審査員達、そして友人の山口に、しっかりと主張する。」・・・「読みはじめ」は「平成4年6月3日」、「読みおわり」は「平成4年6月4日」、「延べ時間」は「5時間」、きっと長い通学時間を利用し、一気に読破してしまったのだろう。作品は開高健の『裸の王様』。この小説の痛快なエンディングを敢えて暈しているのが「計算」であったなら、秀逸な粗筋紹介と評したいところだが、場面を詳らかにするために必要な文字数が単純に不足していただけのことだろう。
 粗筋に引き続き、私の感想文は次のようなものだった。
 「『画はできなくても大学にはいけましょう?』この言葉はものすごく印象的でした。これを聞いて、もっともだと思ってしまう人はかわいそうな人です。大田氏は児童画を通じて子供達の人間形成を、なんて調子のいいことを言っておいて、何もわかっていないと思いました。少なくとも私は現実にそうだとは思いたくありません。画に対して、そういう考えを持つこと自体、間違いではないかと思います。たかが子供の画だと思ってバカにしてはなりません。なぜなら、画の上手下手を言う前に、その人の主張がそこに表れていることが一番大切なことだからです。遠足や、田舎でのエビガニとり、そういったものから子供は絶えず感受するものがあり、全てを忘れてそれを形にしていくのです。それで初めて『作品』となるのだと思います。大人達が子供の創造性を壊さないくらいにきっかけをつくってやれば、そこからは概念のない新鮮な画が生まれるのだと思います。はじめの頃の太郎の画に人間の姿が登場しなかったのも、孤独が画のきっかけになったからだと思います。絵画は、画家でなくても、立派な表現の手段になり得るのです。『学問と違って、絵画に答えはない。』主人公は偽善者達にこれを言いたかったのでしょう。描かされる画でなく、描く画でないと、気持ちは伝わらないことを私は主張したいです。」・・・1回目の提出宿題には特に何も赤ペンが入ってなく、検印が押捺されているのみだったが、この2回目には2ヶ所に傍線(作者注:noteでは太字)が引かれ、「第1回よりも自分の考えが素直に出ています」と鬼教師からのコメントが添えられていた。
 
 こうなってくると、3回目には更なる成長が見られたのかが気になる。高校を卒業して17年、この感想文を書いた1年生から数えれば丁度20年――私は鬼教師の術中にまんまと嵌ってしまっていた。
 3作目の粗筋は、私の記述によると次のようなものだった。
 「弁護士アタスン氏の古い友人の一人であるジーキル博士は、突然狂い出したかのように、ハイド氏という証体も知れない一人の男を絶大の親友として認め、信頼をおくようになる。このハイドという男だが、一目見ただけで相手に不快感を与える悪人相で、夜の街を出歩いては平気な顔で道行く少女を踏み付けたり、上院議員カルー氏をステッキ一本で殴殺したりとひどい始末。しかし、その悪事がやがて世間に広まると、姿を消してしまった。ジーキル博士はというと、まだ狂ったように青ざめ、物思いにふけっている様子であった。彼の孤独な生活には何か隠された事実があるはずだと考えていたアタスン氏は、博士の召使プールの助けを借りながら、それを突き止めていく。するとジーキルとハイドは同一人物。つまり博士は自分の内心に潜む『善』『悪』の心を分けて変身できる薬を開発していたのだった。」・・・「読みはじめ」は「平成4年6月15日」、「読みおわり」は「平成4年6月18日」、「延べ時間」は「8時間」、徐々に課題図書も長い作品となっているようである。作品がスティーヴンソン著・田中西二郎訳の『ジーキル博士とハイド氏』であることは言うまでもない。なお、「証体」という漢字が「正体」に訂正され、2点が減点されていた。
 粗筋に引き続き、私の感想文は次のようなものだった。
 「『しばらくの間、苦しんだ後、全く別の自分がそこにある。』一度でもいいから、そんな神秘的な薬を使って変身してみたいという気持ちをもつのは私だけではないと思います。それは普段の自分に満足がいかないからだと思います。たまには、誠実に生きようと努力しなければならない自分の重荷をおろして、気楽になりたいといった気持ちだと思います。人間には必ず『善』と『悪』の二つの内面があり、何か物事を為すとき、または毎日の生活の中でも、二つの内面の間に挟まれて苦しむことはよくあります。『善』『悪』どちらかに限って生きることはできないでしょうか。ジーキル博士だって、無味乾燥な学問の研究に打ち込んで、人々から温かい尊敬を受けるといった通常の自分の立場から抜け出したいという気持ちだったと思います。しかし、薬を試した時から不幸が始まりました。『悪』のみの心を持って、街を暴れまわる『ハイド氏』の時の自分がすっかり気に入って、縁を絶ち切れないどころか、『善』『悪』を兼ねそろえた元の『ジーキル博士』にすら戻れなくなった彼は、相当な自己嫌悪に陥ったのでしょう。とてもかわいそうでした。一つの内面しか持たない人間は、ブレーキのかからない一方的な考えを抱き、それをどんな思い切った行動にもつなげてしまう怖ろしい存在だと思います。そう考えると、やはり人間には『善悪のバランス』が必要不可欠なのではないかと思いました。」・・・当時16歳だった自分の感想文を読んで、鬼教師が傍線(作者注:noteでは太字)を引いた部分が、35歳となった今の私も気になった。
 まず文章の中で自問自答するようになっている。そして、「悪」を消滅させて「善」のみに限った生き方が望ましいという思考に至らず、人間には「善悪のバランス」が必要と結論づけている。これは、人間の内面から「悪」を消滅させることなど不可能だという諦念に起因するものなのか、それとも「悪」にも必要悪があるという分析に起因するものなのか。その辺りにはさすがに踏み込んでいない。けれど、人間社会に対する見方や、所有する価値観は、高校生にもなると、大人の今と大きくは変わらない基礎がすでに確立されていたのだな、と率直に感じた。
 ――水戸黄門を愛してやまない者は、勧善懲悪のストーリーに嬉々としつつも、世の中から悪が完全に消えてしまったら水戸黄門の出番が無くなってしまうことを知っている。ゆえに、「善」と同じくらい「悪」をも愛し、両者の共存を望むのだ。悪役のほうも命までは奪われない。印籠を用いるまで暫しの間、杖で叩くくらいで丁度良い。そうすれば、翌週に再び憎たらしい悪代官役となってシーンを盛り上げてくれる。自分の内面にある天使と悪魔にも、水戸黄門みたいに戦わせておいたら平和なのだ。薬物に依存した時点で、その元来健全たる善悪の葛藤が戦争状態に豹変してしまう。ジーキル博士は自分との「闘い」を怠った科学者であるものの、それは例えば核兵器の開発者にも酷似していて、人間の悲しくも放棄できない探究心を物語る存在なのである。善の概念なんて地球の如く弱いものだ。悪という太陽に照らされてこそ、その大切さが輝いているのだから。――当時の私も、内面を文章にする力が稚拙だったというだけで、これくらいのことは考えていたと振り返る。
 
 薬に酔った状態で、目の前に上院議員がいれば、ついステッキで殴殺してしまう――それがハイド氏である。酒に酔った状態で、目の前にオッパイがあれば、つい揉んでしまう――それがオトコなのである。まさか私の勤務先にもハイド氏が潜んでいるとはねえ・・・つづく

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