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【世界史】資本主義 行き着く先は 共産化

 「よくもまあ、あそこまでつまらない仕事に耐えられるものだな。どうせ結論なんか出ないのに、時間も紙もムダ。」「あの部署の会議担当者って、確か、前も、その前任も、仕切りが悪いって理由で2年も持たずに営業へ異動になったはずですよね。内線で支社と話したら、今はお二人ともお元気そうでしたけど。」「だいたい会議の長い奴がセールスに出ても、得意先に『それで君の結論は何だ?』ってイライラされるだけだぞ。意味のない資料に紙を使うくらいなら、もっとトイレットペーパーを買っておいてくれよ。此間も切れてたぜ。コピー用紙じゃケツ拭けねえじゃねえか。」「あの部署の仕切った会議の尻拭いもそうそう出来ませんけどね。」
 「何よ、何よ、面白そうな会話して。」・・・夏川さんと私の会話に割り込みながら、いつもの居酒屋に合流したのは春恵さんだ。「会議が長いくらいでメンバーチェンジしちゃうなんて、まだウチは恵まれているほうよ。まったく世の中には実に色んな業者があるもんね。このメール見てよ!取引停止にしたいくらいよ。」とボヤきながら、彼女が徐にバッグから1枚のコピー用紙を差し出す。そこには「いつもお世話になっております。ご注文いただきました資材品で弊社からのロット数が謝っているものがごじあましたので、ご報告させます。(正)5,000名→(正)4,000枚。修正しときます。」と書かれていた。この文面を読み返した彼女の鬱憤がぶり返す。「上司か誰かに責付かれて急いでパンチしたんでしょうね。誤りを謝るのに、まず漢字を誤るって、仕事に集中しなさいよ!『ごじあました』って何語よ!『誤字』と掛けてたら大したもんね。『ご報告させます』って誰によ!それに、修正前も修正後も、どっちも(正)って、しかも資材の単位が『名』って、もう客を怒らせるために派遣された営業みたいなもんやん。さすがに『担当者を替えてくれ』って頼んだら、その上司も『あれでもウチにとっては欠かせない人間でして…』って、いけしゃあしゃあと私に言ってきたからビックリよ。どんだけ人手不足なのよ!」・・・横で聞いていた私もやりきれなくなった。私が就職活動をしていた頃は、有名大学を出ても正社員として採用してくれる会社を見つけられる保障が無いほどの氷河期だったが、あれから15年くらい経ったあたりから時代が一変した。ちょっとした景気回復と甚だしい少子化がグイグイ背中を押す形で、企業間の人材確保競争が激化した途端“売り手市場”へと転じ、英語どころか日本語すらまともでないような学生でも手厚く処遇されるようになってしまった。自らの不運を時代のせいにするのはカッコ悪い。そんなこと百も承知だけれど、たまには愚痴の1つも吐き出したくなる。
 「オマタセシマシタ、中華風冷奴とキムチとキズシです。」「生寿司(きずし)は頼んでないよ。でも、間違って作っちゃったんだったら貰いますよ。勘定付けといて。」「カンジョウ?」・・・最近はバイトの店員さんも外国人が多い。私達はロット数もお詫びメールも間違えまくる日本人には厳しいが、慣れない環境で懸命に働く外国人には常に温かい姿勢である。生寿司というのは「しめ鯖」のことだが、京都に転勤となって比較的初期にマスターした言葉だった。国内をたかだか数百キロ移動しただけで戸惑うのが人間というものである。海外で出稼ぎをしようという生き方に頭が下がるのは自然なことではないか。何の注文を生寿司と勘違いしたのかは不明だが、これくらいのミスは笑って許すのが地球人のルールではなかろうか。「とはいえ、熱燗くらいは覚えてほしいな。」と春恵さん。「それも無理ないと思うぜ。紹興酒とかワインとか一部に例外はあるけどな、こんなに酒をホットで飲む風習が定着してるのは日本だけだろ。」と夏川さん。テーブルの上では中国と韓国と日本の食べ物が仲良く並んでいる。
 
 「私、ロット数の登録変更に疲れ果てて、やっぱ今日は特別に運勢の良くない日だったのかもって思って、御神籤を引いてみたのよ。」「いかにも神社へお参りして来ましたみたいな言い方だけど、お前のオミクジって、あのゲーセンの自販機だろ?」「アラ、夏川さん、よう分かってはるやん。でね、あのゲームセンターに新台が設置されていたの。」「パチンコ屋みたいだなあ。どうせ恋占いとか何かだろ?」「アラ、夏川さん、よう分かってはるやん。『あなたの恋愛パターン』ってヤツやの。星座と血液型と性別とニックネームを入れるだけ。どう?ワクワクせえへん?」
 彼女の“宣伝”に「それだけで分かるの!」と私が食いつくと、さも自分自身が占い師であるかの如き彼女の解説が止まらなくなる。「そうなの!これが見事に当たってるのよ~!」「何で当たってるって分かるの?」「あなた、私の話、聞いてたの?私の恋愛パターンがズバリ図星やからに決まってるやん。」「え~っ、聞かせてぇ~!」「しょうがないわねぇ、今日は特別にタダで教えてア・ゲ・ル」といった、深夜のテレビ通販番組にも呼ばれないような“三文役者”二人の漫談に漸く夏川さんが水を掛けてくれる。「どうせ、一本、二~三百円の玩具だろ?『特別にタダ』なんて勿体ぶる話かよ。」と冷静沈着。そんな彼も明らかに占いの内容を聞きたそうな態度だ。「それでは、いきますよォ~」と春恵さん。
 「合コンのキャラは『お笑い担当』。でもプライドの高さは『標高2,800m』。理想のタイプは『歌舞伎役者』なんやけど、実際には『人見知りの画家』から好かれやすいねんて。付き合ってみると愛情の深さは『地面すれすれ』で、浮気度は『200%』なんやて。」と、春恵さんは「印鑑拭き」みたく小さな薄い紙を二人の前に広げる。「ギャ~ハッハ、大当たりぃ~!」と男二人が哄笑すれば、「でしょ、でしょう!プライド高くて浮気性なんて、梨園狙いの私にとっちゃ誉め言葉よ。」と彼女も何故か自慢げだ。「すっ…凄いなあ…コレ、明日引いてみよう!」と私が言えば、「あのねえ、御神籤やないんやし『引く』もんとちゃうの。“先生”に身を任せて恋愛を分析していただくの。」と、彼女はすっかりゲーセンの新台に洗脳されている。「それに、お客さん、まあ然様にお急ぎなさんなって。今日は特別にあなたの分も引いといたのよ。」「え~っ、聞かせてぇ~!さすが気が利くなあ。ってか、春恵さんも『引いといた』って言ってるじゃないか。御神籤じゃないんだろ?」「まあ然様に揚げ足を取りなさんなって。お代は結構でやんすよ。まっ、そういうわけにもいかんやろし、帰りにコンビニで缶チューハイ1本ご馳走して。それでは、いきますよォ~」
 「合コンのキャラは『意外とお得?人畜無害な弟』。プライドの高さも『10m程度』。理想のタイプは『妹系の人』やけど、実際には自由奔放な甘えん坊っていうより『まじめ人』から好かれやすいねんて。付き合ってみると愛情の深さは『モグラの穴程度』やけど、浮気度はたったの『0.5%』やて。」と、春恵さんが再び「印鑑拭き」みたいな紙を披露する。――今度は哄笑の代わりに感嘆のため息が漏れる。「当たっている」なんてものではない。「ドンピシャ」だ。この“先生”の人を見抜く力…是、只者では無さそうだ。気付けば、私は「モグラの穴って、どれくらい深いのかな?」と真剣に質問をしていた。「私もそれが気になって、ただいま調査中」と、すでに彼女はスマホで検索を開始している。――平成前期どころか昭和まで青春の一頁に含まれている私は、ここ10~20年くらいの間に、世間がつくづく便利になったものだとしみじみ実感することがある。皆、この便利さに慣れて忘却しているかもしれないけれど、ちょっと齢を遡るだけで、私達は「モグラの穴の深さ」を調べるだけでも図書館へ足を運ぶような生活を送っていたのだから。――「分かった!直径5センチやて」「それは広さでしょ」「分かった!地表から20センチくらいやて」「20センチって…想像してたより浅いなあ…A4コピー用紙の短辺にも足りない程度か」「あなたって、時々変わった喩え方するわね。あっ、でも見てみて!これは普段使うトンネルの話で、寝るときの巣穴は深さ2メートルやて。トイレ付のワンルームらしいわよ。」「オイオイ、急に深くなったなあ」「それでもバレーボール選手の身長くらいよ。あっ、ちょっと待って!トンネルの場所は地表の近くやけど、長さがとんでもないわ。長い人だと300メートルやて!」「もう『人』って言っちゃってるじゃん。」「だって、コレ、冷静に考えてみれば、なかなかイイ男よ。『穴』って、愛し方を暗示するものなのよ、きっと。お互いに『深入りしない』関係を保ちながら、気を『長く』して相手に接するってライフスタイルなわけでしょ?しかもね、トンネルが浅いのは餌になるミミズが落ちてくるゾーンだからだそうよ。めっちゃ合理的に生きとるやん!知らんけど。」と、地下1階の居酒屋に腰掛け、人生で一度も目にしたことのない土の下の世界を語る彼女。「随分と良いように言ってくれますけど、オレ、この歳まで独身で、彼女も居ませんよ。」「何を宣わっているのかね。チミはモグラではないか。芸人もアイドルも地下から育つのだよ。いきなり眩しい光を浴びるより、地道なライブ活動で愛情深いコアなファンを掴んだほうが幸せじゃろう。」と、尤もらしく占い師の真似事をする春恵さん。「そんなことまで書かれているの?その診断書。」「私の出鱈目に決まってるやん。けど、あの機械なら言いそうなことやと思わへん?」「もはや『機械』って、言っちゃってるじゃん!“先生”は何処へ出かけたの?」「まあ然様にツッコミなさんなって。歌舞伎役者の妻ですから、そら生活が『小芝居打ってナンボ』みたいなもんどすえ。夏川さんはゴメンね。誕生日が分からへんくて、星座を入力できなかったの。」すると「逆に血液型を知ってるってだけで大したもんだよ。それにしても、いや~、コレ、いい暇潰しになるな。会社の喫茶スペースに置いたら儲かるぞ。」と夏川さん。即座に「“先生”は貧乏くさいウチの会社になんかお越し頂けないですよ。」と切り返す彼女。こんな風に三人で人畜無害な漫談が続く・・・この居酒屋の狭い小宇宙を見る限り、本日も世界は平和そのものかのように誤解してしまう。
 
 「この世から戦争は無くならないの。無くなるとしたら人類が滅亡した時でしょうね。だから正確に言うと、他力で『無くなる』ことはあっても、自力で『無くせる』可能性は極めてゼロに近いって感じね。この避けられない現実から目を逸らさないように世界史を勉強するのよ。」・・・久々に登場!頭脳明晰で努力を怠らないところから、あだ名が「エカチェリーナ」だった世界史の先生は、高校生だった私に「歴史以外の世界」をも見せてくれた。もちろん「啓蒙専制君主」などではなく、愛着を込めて呼ばれていたのだが、澄まし顔で世相を斬るあたりには本当に「大帝」の風格を感じた。
 
 「なぜ戦争は無くならないと思う?それはね、なぜ戦争が起きるのかを考えれば解るのね。先生が出した結論は2つ。戦争が起きやすい関係は、①お隣同士、②似た者同士、このどちらか或いは両方の場合なの。あれ?今の言い方、現代文の先生みたいだったわね。『どちらか或いは両方』って。①②の頭文字『お』『似』を取って『オニの法則』って覚えとくといいわ。あなたたち、現代文の先生のこと『鬼』って呼んでるんでしょ。
 まず、①については解りやすいよね。ヒトって、わざわざ『遠くにいる知らない相手』とはケンカしないもの。国境を接していれば、挨拶もするし、取引もする。そうなると、約束や利害を巡ってトラブルにもなるし、互いの騒音や生活臭やゴミの分別まで気に入らなくなってきて、庭先の境界線なんかで揉めたら最後。ねっ、勿論うまいこと付き合っているうちは良いんだけど、やがて争いに発展する条件が整っているでしょ。だいたい日本国内だって、源平の時代から東西が争ってきたのよ。アイヌだって、琉球だって。いわんや日韓・日朝・日中をや。これ、みんな、基本は①に分類されるパターンね。
 次に、②についても少し考えると解るよ。ヒトって、わざわざ『自分と言動や生き様や力の持ち方が異なる相手』とはケンカしないもの。昭和のプロ野球なんか、試合中の乱闘が珍しくなかったでしょ。アレは同じものを目指しているからムキになっちゃうの。だって野球選手がサッカー選手と小競り合いになることは無いものね。教師や研究者の世界だって、その分野に対する愛情の深さや知識の多さを競い合った揚句に激しい口論になったりするんだから、ましてヤンキーの対立なんかそう。学校を代表する不良同士が、どちらが上かを決めるため、プライドをかけて殴り合うわけでしょ。ヤンキーで思い出したわけじゃないけど、いわんや米ソ・米中をや。これ、みんな、基本は②に分類されるパターンね。民主的だろうと独裁的だろうと、資本主義だろうと共産主義だろうと、地球上の覇権を左右するレベルともなれば、喰うか喰われるか。結局どちらも似たような言動で、お互いを刺激し合うようになる。他にも、似たような財力を有する者同士、似たような宗教を信じる者同士、似たような食べ物で生きる者同士、その中で序列を気にしながら腹を探り合うのね。
 ①と②のミックスの事例もいっぱいあるのよ。パレスチナ問題なんて典型。倫理の先生が教えてくれたでしょ。3つの宗教の聖地が同じ所に在って、実は3つとも同じ起源を持つ宗教なんだって。『近』所同士と『似』た者同士を合わせて、まさに『近似値』なんだから、双方の価値観の誤差くらい許容範囲にしちゃえばいいのに、ヒトって何故かそういうわけにいかないように設計されている。宗教だけに、皮肉にも『神様のイタズラ』ね。
 一方の侵略によって戦争が始まるパターンもあるけど、これも元々は『アイツを追い出せばいいんだ。そうすればアイツのモノも手に入るし…。』とか『ここでアイツを倒しておかなければ、今後の生存競争に勝ち残れない。』とか、そんな感情が引き金で、その『アイツ』っていうのは結局『自分のお隣』か『自分に似た者』なわけでしょ。で、侵略された側は恨みを棄てきれないし、報復を仕掛ける。あとはこの繰り返し。やっぱり、どんな戦争もスタート時点まで遡れば、勃発の条件は①②のどちらか或いは両方の場合なの。
 
 ねっ、人類というのは、その生物学的な特性上、自らの努力によって地球から戦争を無くすことが限りなく不可能なんだってことに納得したでしょ。でも、この『納得』と『平和を求める努力』は切り離してね。戦争は起きてしまうものなんだって承知しながら、それを回避する方法と、起きてしまった場合の終結方法と事後処理方法を常々考えておくの。そうねえ、野球部で言うと、はじめからエラーは起きてしまうものだと想定して、バックアップの練習をしておくイメージかな。諦めているようで諦めない感じ。――それでも『何故こんなに単調な反復練習ばっかりするんだろう?』って思えてくる。頭ん中では準備の重要性を分かっちゃいるんだけど、心の何処かで『ウチの内野手の守備は鉄壁なんだから、外野手のボクが毎度毎度ベースの背後に回るのって、無駄なプレーなんじゃないか?』って疑問に抗えなくなってくる。それが人間ってもんよ。動物と違って、行動にどうしても『意味』を求めちゃうの。幸いミスをした経験が無いものだから『ホントに失策したら試合がどうなるのか?』ってことを現実に引き寄せづらいのね。
 だって、そうでしょ。いろんな資料館で空襲の恐ろしさとか親や家を亡くした子供の悲惨さとかを見学するけど、ホントのホントの腹の底では『私には関係ない』『私の生きているうちにアメリカとの同盟が破綻することはない』『私の生きているうちに日本から外国へ戦争を仕掛けることはない』って受け止めてしまっているでしょ?だから、敵陣に散ったり街で焼け焦げたりした私達のご先祖様の写真も、魂にまでは響かないっていうか、心の何処かで『他人事』なの。先生、これはもう仕方ないことだと思ってるの。そりゃそうよ、半世紀も平和が続いているんだもの。日本史の先生が仰ってたでしょ?関ケ原の戦いを嬉しそうに解説する研究者は、基本的に戦争礼賛者と同罪なんだって。東西両軍の和平工作なんかについて語るのが平和教育なんだって。でも、あんまりにも昔の事過ぎて『戦国武将、カッコイイ!』って、憧れちゃう。そのうち太平洋戦争も古い絵巻物の1つみたいな扱いになっちゃうだろうけど、それはそれで『良い事』でもあるのよ。平和ボケって、度を超すと厄介だけど、幸せの証なんだから。
 
 もう少しねえ、身近なリアリティで『戦争が起きたら日常がどうなるのか?』を捉えたほうがいいよ。爆弾とか徴兵とかじゃなくって、戦時中に『庶民の家庭生活がどんな様子だったのか?』を知る、それも、『国防婦人会』とか『学徒勤労動員』とかでも、まだまだリアルじゃないだろうから、例えば『食卓』を思い浮かべるのが一番リアルじゃないかな。
 あなたたち、この後お昼に学食へ行くでしょ。もし仮に、あくまでも仮定の話よ、何かの弾みで国連の常任理事国クラスの大国が絡んだ戦争が勃発してしまった場合、まず牛丼はメニューから消えるでしょうね。あっても肉の量が半減するわ。きつね饂飩も無理ね。油揚げの原料になる大豆がまず手に入りづらくなるもの。小麦の自給率も絶望的だから饂飩もダメ。出汁と刻みネギだけで我慢しなさい。パンなんて以ての外。実は牛乳だって貴重品になっちゃうかもしれないのよ。これだけ四方を海に囲まれてたって、魚介類も輸入品が多いから今みたいな贅沢は出来なくなるね。じゃあ何食べて生きてくんだって言えば、9割以上が日本国内で収穫できる米とイモくらい。玉子掛け御飯は味わえるかもしれないけど、戦争が長引けば卵を産んでくれる鶏のエサが確保できなくなってくるかもね。おかずは殆ど野菜――野菜も国内で、しかも物流費をそんなに掛けずに事足りるの。焼け野原になった都会の人が、着物を担いで、田舎の農家を回って、惨めに頭を下げて、何とか野菜と交換してもらうって、よくドラマでやってるアレよ――でも野菜だって季節があるから、保存の利く漬物が多くなっていくんでしょうね。因みに、果物なんて食べられるのは金持ちだけよ。飽食の現代だから無駄に捨ててる食糧もあるけど、これをいくら巧く配分したとしても、禁輸が伴うような戦争が起きちゃったら、マイナス分を補いきれる量には到底ならないわ。
 こんな生活、毎日続けてたら、ダイエットにはいいけど、お腹が減って、元気が出なくて、イライラして、情緒不安定になって、それでも国は『一億総動員』とか豪語して、あなたたちを家畜のように朝から晩まで働かせるの。まあ、その頃になると日本の人口は一億人も無いだろうけど。――ねっ、とってもリアルでしょ。途端に他人事では無くなるでしょ。やっと、戦争に『絶対反対』を表明する心境になったでしょ。
 いい?是、先生、重要なことだと信じているから繰り返して言うわよ。もし仮に、あくまでも仮定の話よ、日本の戦争放棄の立場が尊重されて、爆弾や徴兵で家族を失うような惨劇が無かったとしても、そういう『目に見える戦禍』とは別に、民間人の暮らしはじわじわと困窮することになるわ。そうなると段々国民の不満が募ってきて、混乱に業を煮やした政府は、自分達を苦しめている敵対国への宣戦布告を閣議決定する。こんなふうに人間社会は暴走していくものなの。キレイ事じゃ戦争なんて無くせないの。『大切な家族を失いたくないから平和を守りたい』なんていうスローガンは、あっという間に『大切な家族と祖国の平和を守るために戦おう』ってスローガンに転じてしまう危険性を常に孕んでいるの。もっとね、身近なことを想像しなさい。毎日毎日、食べて、寝て、学校行って、大嫌いな世界史の勉強をしなきゃならない今の生活が、実は奇跡的に貴い平和の上に成り立っている偶然中の偶然なんだって、そこに着眼点を置きなさい。」
 ・・・私は必ず年に4回、沖縄・広島・長崎・千鳥ヶ淵や靖国に向かって掌を合わせているが、エカチェリーナの熱のこもった授業を受けてからというもの、その祈りと心構えが格段に真摯なものへと変貌した。
 
 「ねェねェ、エカチェリーナって、あなたの彼女?」「へェ?」「だって、あなた、譫言みたいにブツブツ呟いてたじゃない」と春恵さん。「何だ、オマエ、またロシアンパブにハマってんのか?」と夏川さん。「『また』って何ですか。一度もハマってませんってば。」と私。どうやら私は、ものの30秒くらいの間だろう、ぼんやり虚空を眺めながら独り言を発していたらしい。目の前にいる二人と会話をしながらも、心だけ糸の切れた凧の如く高校時代の世界史の空を彷徨っていたという次第だ。「言動」の領域においては周囲から「かなり社交性が高い」と云われるくらいなのに、その一方で「思索」の領域が稀に「言動」を領空侵犯することがある。周囲とコミュニケーションをとりつつも、独りでいる時空との区別が付かなくなって、勝手に呆けてしまう――高校卒業後、四半世紀以上が経過した居酒屋でも、相変わらずこの癖が抜けない。
 そういえば、エカチェリーナ(Екатерина)の愛称が「カチューシャ(Катюша)」だと知るのは、卒業後、大学でロシア語の講義を選択してからのことだった。あれは元々「頭に挟むC字型の装身具」を指しているのではなく、ロシア女性のポピュラーな呼び名、謂わば「花子さん」みたいなニュアンスに近いものだと、これまた癖が濃くトルストイみたいな風貌の老教授が教えてくれた。有名な民謡の「Катюша」も――そう、曩時の京王閣競輪場で投票締切3分前になると流れていたあの曲も――出征した恋人に思いを馳せるカチューシャという名の少女の歌だそうだ。「♪乙女の歌よ 太陽をかすめ 鳥の如く飛んでゆけ 遠い国境の若き兵士のもとへ」という原語歌詞の和訳に目を通して以来、あのメロディーの軽快さの中にも、私は切なさを感受するようになった。反戦歌と思いきや、エカチェリーナの本意かどうかなどは余所に、かのソ連軍も愛唱していた。“トルストイ教授”が見せてくださったのは、凛としたロシア美人が軍服に身を包み、オーケストラをバックに意気揚々と歌うシーンだった。が、私にとっての「カチューシャ」とは、胸や肩に星印を付けて戦車を操る兵士達に非ず、やはり腸脛靱帯に沿う七つ星を誇りに自転車を操るレーサー達を象徴するものなのである。
 ――舞台上の美人歌手のウエストよりも太いと思わしき腿を上下させ、選手が入場。それを迎え入れる大門に輝くは「Fighting Gate」の文字。小学生の私に読める筈も無く、すぐさま隣で予想に夢中の父に問う。「おっとう、あれ、なんて書いてあるの?」「ああ、あれは英語で『ファイティング・ゲート』って書いてあるんだ。」「スゲー、英語わかるの?どういうイミ?」「敢闘門ってことよ」「カントウモン?」・・・私が「英語よりも分かりにくい日本語」の存在と奥行きを知り始めた年頃のことだ。――「初詣に行こう!」と父に誘わるがまま、喜び勇んで飛び出す私。近所の氏神様に何をお頼み申したのかは憶えていないが、間違いなく父にとっては必勝祈願だった。二拝二拍手一拝を終えると「さあ、出かけるぞ!正月はアレだろ!」と父。“お出かけ”の行き先が神社だけだと思い込んでいた息子は益々嬉々とする。むろん目的地は京王閣競輪場というわけだ。
 幼かった私は「Fighting Gate」というスペルを「言語」というよりも「図形」として捉える。一般的な日本人がアラビア文字を「図形」としか捉えられない感覚に等しい。観察しているうち、「Fight」というアタマの部分の文字の並びを「何処かで見たことがある」と気付き、小学生ながら過去の実体験にリンクさせようと試みる。――甦った記憶は後楽園球場だった。そう、贔屓球団のユニフォームの胸に刺繍されているあの文字ではないか!――この発見に上機嫌の私は、暫くの間、この「ファイ」の発音で始まるプロ野球チームを「カントウ軍」と呼んでいたのだか、それを大人達から必死に止められたことは言うまでもない。命名者にしてみると、この球場を本拠地としていたもう1つの球団「巨人軍」の大人気に肖りたいつもりだったのだが、全くもって「敢闘軍」と「関東軍」とは――同音異義語も6拍ともなれば「雨」と「飴」の比では無くなる。
 双方ともホームグラウンドを同じくするのみならず、応援メガホンの色まで同じオレンジ。「G」のほうの「闘魂」は球団歌でもお馴染みな一方で、知らない人が殆どだろうけど、私が大切にしている「F」のほうの応援ハチマキにも「熱闘」と、同じ「闘」の字が染められているのだ。そうなると、実は「敢闘門」とは、セパ両リーグの友好の証のようなものであり、「Fighting」の「F」がパリーグ、「Gate」の「G」がセリーグを代表しているのではないか?
 いやいや、もしかすると、これは水道橋界隈に限られた話ではないぞ。蓋し、競輪も野球も同じ9人で闘うスポーツだ。西武園や川崎や甲子園にも競輪場が在るし、かつては後楽園にも競輪場が在った。そうなると、実は「敢闘門」とは、競輪と野球の友好の証でもあるということか?
 こんな具合に、少年の架空の物語は膨張するばかり。振り返れば、小学校の先生も、運動会で「カントウ門から行進しなさい」「カントウ賞おめでとう」と、さも当たり前のように「カントウ」と言う割に、それが何物なのかまでは教えてくれなかった。正月競輪から帰った私は、冬休みが明けるや否や、先生に「カントウ」の意味を質問したわけだが、本当に恥ずかしくなるほどヘンテコなガキだった時分が今では懐かしい。
 
 さて、「エラーの多い業者の営業」から「ストライクゾーンを外さないゲーセンの性格診断」に至るまで、話題を欠かずに盛り上がった三人は、地下の“アジト”を後にすると、酔って気が大きくなるという典型的な“サラリーマン戦隊”に変身し、祇園のスナックをハシゴしてしまう。そして毎度ながら私の土曜日の午前中は“予定通り”台無しになる。重たいアタマでクリーニング屋さんへ向かう。ドアのガラス越しにあの店員さんの顔が見えると、店内に入る前からますますアタマが重くなる。
 「え~っと、まずハンガーをお返しします。で、今日はYシャツがイチ、ニイ…5枚、それとスラックスが1本。」「点数の確認、よろしいでしょうか。イチ、ニイ…Yシャツが5点、ハイ、承りました。スラックスは汗抜き加工にしましょうか?」「お願いします。」「はい、スラックス1点で汗抜き。では、583円になります。」「えっ?そんなに安くないでしょ?」「ハア…あっ、Yシャツを忘れていました。え~っと、アレ?何枚でしたっけ?」・・・先程1枚ずつ数えたのは、何のための確認だったのか?そもそも、私は毎週、月火水木金の出勤で着た計5枚のYシャツを土曜の午前に出すのがルーティンだと、一体この人は何度これを経験すれば理解できるのだろうか。名札には「勅使河原」と書いているので、まず外国人ではないだろう。会計を済ませると、今度は「ありがとうございました」と告げたまま、安心しきって私の顔をボーっと見つめ続けている。数秒の時を経て「何かお忘れですか?」と彼女が平然と客に質問する。「いやいや、先週お願いしたYシャツ5枚とスラックス1本を受け取りたいのですが。」「あ~、失礼しました。では、お引替え券を。」「お渡ししましたよ。」「ハア…あっ、私が手に持っていました。」ここから再び二日酔いがぶり返すほど待たされた挙句、ビニールの掛けられた仕上がり品を提げて戻って来るや否や「では、点数の確認、よろしいでしょうか。イチ、ニイ…Yシャツが5点…それから…」と巻戻し再生をしたかのようなプロセスが忠実に繰り返される。
 歩いて行ける近所に、お婆ちゃんが一人でやっているクリーニング屋さんがあったのだが、そのお婆ちゃんが入院することになり、店仕舞してしまったのだ。あのお婆ちゃんは、左手でYシャツを捲りながら、右手で伝票を書き、暗算で即座に『ハイ、1,430円ね。おおきに。』と余裕綽々のニコニコ接客だった。速いし、安いし、そして何よりも親切だった。わざわざ自転車で勅使河原さんの店に来るしか選択肢の無い人生が恨めしくなってくる。これが人手不足の現実だ。この資本主義の成熟化した社会にあって、ライバル店というものが出現せず、競争原理が作用せず、いくらマニュアルを叩き込んでもサービスは向上しない。私達の資本主義とは、高次元では発達を続けているかに見えて、身近な日常においては共産主義化している気がしてならない。
 
 但し、ここで勘違いしてはならないのが、「資本主義」が成功で「共産主義」が失敗だとは、地球上の誰も断言できないこと。それは長い人類史の中で、たかが直近100年程度の「社会実証」みたいなものを経て分かった「事実のごく一部」に過ぎず、先入観が戦争を誘発し、結果的に人類自らの首を絞めるという「もう1つの事実」を観ていない。たった今、エカチェリーナと勅使河原さんが教えてくれたばかりではないか、「資本主義も共産主義も紙一重の似た者同士じゃないのか」「いちいち価値観の違いで他人と争っていたら、小麦粉が手に入らなくなって、饂飩もパスタも食えなくなるぞ」って・・・つづく

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