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【現代文】オレ呼んで 心を読んで 本読んで

 「なあ、最近はどんな本、読んだん?」「えっ?本?読んでないよ。」「サラリーマンって、本、読まへんの?ビジネス書とかも?」「いや~、本を読む人は多いんだろうけど、オレはビジネス書、苦手だなあ。」――むろん日頃の業務で活字に全く触れていないわけではないが、殊会話がここに辿り着くと、つくづく私は“文章なるもの”を読む習慣が皆無に等しい事に気付かされた。ビジネス書どころか、小説すら。雑誌どころか、新聞すら。
 「小説も?」「う~ん、そうだなあ、最後に小説って、いつ読んだかなあ。」「私は小説読んどるで、暇つぶしにな。」「暇つぶしで?スマホでゲームとかネット動画じゃなくって?」「飽きてもうた。それに毎日『物理工学』やっとると、気分転換に“文学的”な事したなってくるで。文庫本ってスマホと同じくらいの重さやし、スマホでも小説読めるし。教科書のほうが邪魔なくらいやわ。」と微笑み、鞄の口を大きく開くサクラ。「どう?現役女子大生のバッグの中身を覗き見して興奮した?」「現役女子大生かあ。って、わざわざ『現役』付けてるけど、現役じゃない女子大生は“サクラ”だってことか?」「名前はサクラでも、私は“サクラ”とちゃうで。ホンマの現役や。」
 
 「う~ん、やっぱり好きな人が出来た以上、もうサクラと会うのはやめるよ。」「アナタ、それ、正気?」「あれ?何かおかしい感じがするなあ。付き合ってもいないのに、オトコが別れを告げるシーンみたいになってるなあ。」「そう、私、見事にフラれとるで、友達やのに。」――彼女は平然とニヤニヤしながら前のめりに訊ねる。「なあなあ、どんな人なの?」「中学の時の初恋の人」「ええ!東京で会うたん?ヨリ戻したん?何年振りなん?」「縒りを戻すって、まだ一度も付き合っていないよ。」「ほな、友達やん。私も友達やん。」「そりゃ、友達って言ってしまえばそうだけど、少しでも想っている人がいるのに、こうやって別の女性と、しかも現役の女子大生さんと度々食事に出掛けるのって、もともと不自然な上にだよ、不健全でしょ。」「アナタ、それ、正気?手も繋いでへんのやろ?向こうに旦那さんが居はるかも分からへんのやろ?それも立派に不自然で不健全やで。これから私と会わんくなるほうが、却って重たいゆうか、なんや薄気味悪いで。ほんで、もし裏切られたゆうか、彼女と期待通りにならへんかった時、『サクラと会わんほど禁欲したのに!』って反動が強すぎて苦しむんちゃうかなあ。」――この指摘には不可思議にも反論できなかった。ここまで直球ド真ん中を投げられると、たじろいでバットが出ない。物の見方を変えれば、確かに彼女の見解を否定するのは容易でない。寧ろ図星だ。私が渋谷でやっている事と難波でやっている事との間には、積み上げられてきた経緯や心情が異なるというだけで、行動それ自体はほぼ同じ。春子さんとサクラの違いと云えば・・・「じゃあ、せめてホテルで会うのはやめよう。食事だけにしよう。それでも会ってくれる?」「う~ん、そこが大事な商売やねんけどなあ、ってゆう本音もあるけど、勿論よ。だってアナタはお姉ちゃんのお墨付きのオトコやん。」――こうしてカネとカラダの関係だけでスタートした二人は、カネとカラダを断ち切ったわけだが、かといってココロで繋がっているという確信も決して得られたものでは無かった。「そのハルコさんって人と結ばれるために、アナタに女心を教えたげるわ。」「いや~、まあ、それはそれでノーサンキューってことで。参ったなア、余計な事を口走っちゃたなあ。」「なっ、余計やったやろ。たまにアナタを誘うのは私の勝手。とりあえず会うて、お互いに楽しく過ごしとったら、ほんでええやん。渋谷のオンナがどうこう言うんは、要らん情報やねん。せやから、ハルコさんにも私のことを言うたらあかんで。」――これは何かに騙されているのだろうか。でも、難波の存在を渋谷に積極的に打ち明ける理由も無いな。春子さんも「積極的に打ち明ける理由も無い」という理由で、独り身なのか否かを私に黙り続けているのだろうか。まっ、それもサクラに云わせれば「余計な事」なのだろう。
 
 「で、最近は本読んでへんくても、昔は読んでたんやろ?」「昔って、学生の頃な」「私も今は学生やから本読んどんかなあ。社会人になったら本読まへんくなるんかなあ。」――彼女の呟きはまたもや図星だった。社会人になってからというもの、資格取得のための勉強以外で真剣に本と向き合ったのって、数冊レベルかもしれない。ましてや小説に限定すれば、私にとっての「読書らしい読書」はやはり高校生の時分を措いて他に無い。
 
 「映画を観ているとき、スクリーンに映し出される登場人物に向かって、ふとものを言うことがある。ストーリーの転開に対する自分の共感や反感がつい言動となって表れてしまうのであるが、それだけ内容にのめり込んでいる証拠である。つまり、役者の名演技もしくはスタッフの効果的な演出といったものが、一人の人間の心をこれだけ大きくコントロールする力をもっているのである。」――高校時代の現代文の鬼教師による読書感想文の宿題。いきなり「転開」という漢字が「展開」に訂正され、2点減点の赤ペンが入れられてしまってはいるが、2年生の1作目から雰囲気ががらりと変わっている。とりあえず1年生の「です・ます調」が、2年生では「だ・である調」に改められている事が一目瞭然。それに、まだ第一段落しか読んでいないけれど、単純に粗筋を評論するのみならず、作品に向き合った自分の心情を織り込もうという姿勢がじんわりと伝わってくる。
 しかも、1年生の感想文と印象が異なるのはテクストの中身だけでは無い。まず外見が明らかに違うのだ。鉛筆では無くボールペンを用いている。先生の用意した所定の用紙では無く、原稿用紙を使っているし、その原稿用紙が黒魚尾を境に山折りされ、きちんと片側200字の両面上部に頁番号が振られている。提出する感想文の文字数については、所定用紙の枠内に収めることが条件だった1年生から脱皮し、2年生からは最低1,600字、即ち原稿用紙4枚以上が条件で、以降無制限だった。そして、これが年間15作品分、丁寧に4箇所の針穴から通した縦横のタコ糸で綴じられ、しっかり圧力を掛けてもなお3センチの厚みを有する冊子に仕上げられているのだ。よく見ると、厚紙の背表紙まで拵えてあるではないか。――これだ、最初にこれを見つけたかったのだ。引っ越し荷物の整理を契機にタンスの奥から1年生の1作目、有島武郎『一房の葡萄』の感想文を見つけたその時から、兎に角この2年生の冊子を見つけようと躍起になっていたのだが、縦26.5cm・横19cm・厚さ3cmの“紙の塊”はどの科目のどんな教科書や副教材よりも大きい故、躍起にならずとて直ぐに見つかった。1年生の時とて14作も読んで書いたのに、2年生の時のほうが大人になってからも印象に残っていたのは、他でもない。この冊子を作製した思い出が強かったためである。長い人生において、原稿用紙を山折りにして二穴パンチを2回使い、正式な四ツ目の和綴じにする経験なんて、殆どの人には無いだろう。現に私とて、これまでの48年間の人生において二度しか経験していない。二度目の経験は、3年生の10作品分を綴じた一冊だ。冊子の裏表紙の内側に挟まれたプリントには、コピーだが鬼の直筆文字が次のように刻まれていた。
 「年間十五冊の読書の押し付けは諸君にとってどのような意味を持っていたであろうか。また、読書感想文の課題は諸君にとってどのような意味を持ち得たであろうか。
 いずれにせよ十五冊の読書感想文が揃うとたいそうな紙数になる。あらためてみてみると自分を褒めてやりたくなるであろう。どうぞ自分を褒めてやりなさい。原稿用紙を使え、ペン書きにしろ、表紙を付けろと注文ばかりが目立つ課題であった気もする。しかし、これらの型を一度身に付けてしまうことの意味は大きいと考える。
 ここでもうひとつの課題を出す。十五冊分の読書感想文を小冊子にまとめなさい。試験前で忙しいと思うが、疲れた頭脳を休めるために、きれいな表紙で自己の読書記録を残してみよう。その上で再び自分を褒めちぎるがいい。
 <用意しなくてはいけないもの>表紙・裏表紙(コクヨの黒表紙なら生協で二百円)、背表紙(厚紙を使用することが望ましい)・綴じ紐
 <要件>表紙に題簽を付け、氏名も明記すること。背表紙にも題と氏名を明記すること。」
 ――題簽(だいせん)というコトバの意味を忘れていた。この後に具体的な「綴じ方」が図解されているのだが、「パンチで穴を開けるとき、ホチキス針が邪魔をするかもしれないため、あらかじめ外す」「綴じ紐はすべて二重にした方が強くなる」といった注意書きが添えられている。おそらく当時の私は紐をわざわざ二重にするのが面倒で、ハナからタコ糸を用いたのだろう。我が家の道具箱は、何十メートル分にもなる10号の綿糸を備えていた。毎年正月になると、父と私が「コンビニで売っている安い玩具の洋凧を豆粒のように小さくなるまで遠くに揚げてみよう」という試みに興じていたからである。玩具の付属品の糸なんかでは細くて、それこそ子供のお遊びレベルの上空で切れてしまうため、専用の糸に付け替えるのだ。まさか、それが高校2年の終わりに別の役目を果たすとは――。
 プリントの結びには「キレイに綴じなさい。美しいものには加点する。これで結婚披露宴の演出ネタもOK。老後の楽しみもひとつ完成。」と書いてあったことに驚いた。結婚が出来なかったから、披露宴の演出には利用できなかったが、今こうして老後の楽しみにはなっている。まあ、老後では無いけれど、もう48なんだから、老後に片足を突っ込んでいると言ってもいいだろう。
 私がこの冊子に付けた題、則ち題簽に示したタイトルは「十七歳の地図」であった。尾崎豊の名曲であることは承知していたが、どちらかというと爆風スランプの「45歳の地図」から拝借したものである。私の中学2年時のヒット曲だ。なお、小学6年生の秋に「Runner」、中学1年生の秋に「大きな玉ねぎの下で」がリリースされている。尾崎の魅力が胸に沁みるようになったのは寧ろ中年になってからのこと。どちらの「地図」も「自分に差し迫った将来が大して面白くも無いものである」ことを歌っている点で共通してはいるものの、具材や調理方法がかなり異なる。高校当時の私には「大人達への抵抗」よりも「大人達の哀愁」のほうがずっと現実的に見えたしシンパシーも抱けた。貧乏人には社会に刃向かう余裕すら無い。大人達に揉まれ続け、社会に従順に生き続け、ようやく衣食住に困らなくなってから、急に自分を縛り続けてきたルールに抵抗してみたくなってくる。まさか「45歳の地図」に描かれた年齢を過ぎてから「十七歳の地図」の世界観を理解するようになろうとは、皮肉にも程がある。
 
 そんな私の「十七歳の地図」の1作目が、筒井康隆の『家族八景』だった訳である。感想文の続きを読んでみようではないか。ドラマ化もマンガ化もされた所謂「七瀬シリーズ」の第1作。17歳の私は、あの中々の性描写に嘸かし衝撃を受けたことだろう。
 「しかし、それは映画の世界に限ることだろうか。実は現在我々が生きている社会そのものが、映画のように演技や演出によって成り立っているのではないだろうか。
 作者は男と女の関係、特に性的な関係を全ての章で取り扱っている。作品中の刺激的な表現に私は何回も驚かされ、これが課題図書であることを疑ったほどである。
 女の子に親切にしてあげる時、下心のない男はいない。いたとしたら、女性の方に魅力がないか、男性の方に能力がないかのどちらかであろう。男のリビドーというものが女の想像以上にたくましいことは、健康な男子高校生である私も知っている。読心能力を用いて数々の男の『掛け金をはずし』てきた主人公・七瀬も知っているはずである。
 大学教授・根岸新三の教え子との情事の話を例に挙げても、こういった行動を起こす理由の一つとして、彼のリビドーが発散しきれないことがいえるのは確かである。リビドーが罪悪感に勝ったのであるから、彼は当然自分の罪を問い正す前に、妻に対してこれを隠すことに努める。この時点で夫と妻の間に役者と客の関係が築かれたわけである。妻の勘がよくて夫の浮気がばれたとしても、彼女が気づかぬふりをしたなら、彼女は夫より上手の役者に成長したといえる。すなわち不良な男女の肉体関係という事実が存在しても、平穏な家庭の秩序が乱れないのは、役者の名演技のおかげなのである。
 作者はこの欺きの世界を題材に、多くの役者によって形成されているがゆえにうまく保たれているという社会の危険性を訴えたいのではなかろうか。
 自分に好都合な演技をする人間の暗く嫌な<悪>の部分と、世の中が上手に機能しているという<善>の部分とは、明らかに矛盾している。とはいえ、実に不思議なことだが、果たして世の中に本当の<善>が存在するのだろうか。私たちが<善>と思っているものは、本当は<偽善>にすぎないのではなかろうか。これは一見極端な言い方に聞こえるが、真理を追究することほど難解なことはないと思う。
 それに忘れてならないのは、いくらその時映画にのめり込んでいても、映画館を出れば、ついさっき見たものをただの一作品として捉え、普段の生活に戻るということである。つまり、芝居は必ずばれるのである。いつかはばれると知りながら演じ続けるのはみじめであるが、みじめな芝居を続けながら誠実に生きようと努力するのが、全ての人間の姿なのかもしれない。
 さて、制作者や客とはまた異った立場に映画評論家という人物がいる。評論家は一般公開よりも先に映画を鑑賞する。しかもあれこれと論ずる立場なので、いつも冷静で作品にだまされるようなことはない。いつも女中という第三者の立場から他人の本心をうかがっている七瀬は、まさに映画評論家といったところだろう。そしてそれを楽しんでは批評しているわけである。彼女にかかれば、芝居など全く効果がない。
 私は彼女という人物がどうも好きになれない。読心能力を道具に、あらゆる人間の心をもて遊んでいるような気がする。しかも彼女にはそれに対する罪悪感はない。できれば彼女を社会から排除したい。
 しかし考えがここまで到達したとき、彼女がテレパスであることを隠すのも無理ないと思った。人間は自分の持たない特異な能力のある人間には劣等感や恐ろしさを感じて、その人物を取り除こうとする。私もその一人だったわけである。
 それにしても自分の心の中を全て覗き込まれるのはたまらない。七瀬の存在について深く悩んでいると、小説になんの疑いもなくのめり込んでいる自分に気がついた。私は映画評論家には向かないと思った。」
 ――これで原稿用紙4枚半の9ページ。「自分の罪を問い正す前に、妻に対してこれを隠す」の「問い正す」が「問い質す」に改められて減点2。「制作者や客とはまた異った立場に映画評論家」の「異った」の送り仮名を「異なった」にすべきとして減点1。さらに「あらゆる人間の心をもて遊んでいる」の「もて遊んでいる」は「弄んでいる」が正解であり、これも減点2。減点ではあるけれど、「もて遊ぶ」なんて“造語”には大人に思い付かない斬新さを感じる。パソコンで原稿を書くのが常識となる前の時代、辞書を片手にしても誤字の2~3ヶ所はご愛嬌ということか、計7点の減点だが、総合評価は「A」となっている。まあ、この「A」がどれ位のランクの成績を意味するのかについては記憶に無いけれど。
 なお、現在の私の目線から蛇足すると、「問い質す」とは「不明な点をたずねてはっきりさせる」「真実のことを言わせようときびしく追及する」というのが、少なくとも高校生当時に私が使用していた広辞苑に示された意である故、他者から――本作品の中では例えば「根岸の妻」から――問い詰められるような場合に用いるべきで、「自分の罪を問い質す」という表し方はあまり適切で無いように思う。ここが減点要素。一方、基本的に「とき」と平仮名表記をしている文章の中で、「いくらその時映画にのめり込んでいても、映画館を出れば」の部分にだけ「時」を用いたのは、映画館内に居る「時点」を意図的に強調したかったものと思われ、ここは加点要素といったところだろうか。
 
 「女の子に親切にしてあげる時、下心のない男はいない。」とか「みじめな芝居を続けながら誠実に生きようと努力するのが、全ての人間の姿」とか、この辺りの物の見方は、31年が経過した今となって鋭く胸に突き刺さる。何故ならば、今の私の生き様が減点要素たっぷりだからであることは言うまでも無い。他ならぬ私自身が、ホテヘルで出会った現役女子大生と度々食事に出掛けるイヤなオジサンになっている。但し、ここだけは拘らせて欲しい。私の場合、不倫では無い!
 さて、『家族八景』の読後感、否、正確には『家族八景』の読書感想文の読後感に浸っている間も無く、感想文と一緒にタコ糸で結ばれてはいなかったプリントが「和綴じの方法」とは別にもう1つ挟まっていて、これが冊子の真ん中辺りからはらりと零れ落つ・・・つづく

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