イスラエルとパレスチナの問題の考えにくさについての心理学的考察

 イスラエルとパレスチナの間で凄惨な抗争が発生している。世界中に大きな影響を与える大きな出来事であるが、この問題は日本人にとって考えにくい。考えにくいことの第一の要因は、私たちの経験不足・知識不足によるものだろう。これについては、地道に勉強を続けて少しずつ分かるように心がけるしかない。
 一方で、パレスチナ問題についての考えにくさは、知識の不足だけに尽きず、日本人にとって二つの水準で深層心理的な抵抗が働くことにも由来している。一つは文化・宗教的なもので、中東情勢の抗争の中心にあるイスラエルのユダヤ教、パレスチナのイスラム教、それに濃厚にかかわる欧米諸国のキリスト教という巨大な一神教の論理と、日本人が自覚の乏しいままに従っている多神教の論理の差が大きすぎることに由来する。もう一つは、「対米従属」と形容されるような立ち位置を、国際社会の中で日本が維持してきてことから来ている。
 今回の小文では漠然とした「こんな感じが良いだろう」という心構えについての提案を行うつもりである。文化論や心理学に偏った分析から具体的な方針の提言を行うことは無謀だろう。心理学を踏まえた文化論として、気楽に読んでもらえれば幸いである。

 一神教的なものと多神教的なものの違いは、軸となる時間感覚に明確に現れている。一神教の信徒は、日常的な感覚を超越した存在があることを信じているし、その神の意志によって世界が成立したと考えている。そしてその意志を知り、それと一致した人生を送ることを理想としている。一つの意志が存在しているのだから、始まりがあり、目的である終わりが存在する。そこから、目的を目指して一方向的に進む直線的な時間感覚が生じる。1日が24時間であるというような客観的に計測可能な近代的な時間は、一神教的な時間感覚の影響を受けた、始まりと終わりの区切りがある、人間の経験としてはどちらかと言えば無理をした、不自然な時間なのである。
 一神教徒の時間感覚は、神の意志が目的に向かって展開していくことに本質がある。停滞や逆戻りがあったとしてもそれは人智を超えた神の計画によるものだから、信じる人にとっての反証とはならない。近代化された一神教徒が露骨に主張することはないが、しかし根底にあるその時間意識が目指しているのは、他宗教を滅ぼして自らが奉じる神の意志が全世界であまねく実現することである。そして、それぞれの宗教が歴史的な経緯から尊重するのが、エルサレムを中心としたイスラエルの地なのである。一神教徒たちが、この問題について簡単に妥協できないことを私たちは漠然と想像できるが、それを追体験して実感することは難しい。
 直線的な進歩を想定する一神教的な時間と異なる、多神教的な時間の特徴を一言で表現するならば、それは「循環」である。朝が来て夜が来る。四季がくり返される。世代が変わっても、どの人も同じような人生を送る。ラディカルな変化は、進歩とみなされるものでも警戒される。多くの日本人の時間感覚は、こちらに近いのではないだろうか。特定の意志の実現よりも、調和の中で時間が反復されることが優先される。一方でこの循環が停滞につながることも当然のようにありえる。世界中で各国が経済成長を続けた中で、日本は長く停滞にとらわれている。「そこそこの豊かさと幸せ」が続く限り、この循環型の時間の中に生きることの方を、日本人は深層心理の水準で強く望んでいるのかもしれない。いずれにしても、イスラエルとハマスのような抗争は、豊かさと平和の中に安らいでいた多神教徒には、想像したり考えたりすることが困難な出来事になってしまっている。
(ちなみにもし、今後日本が経済的に困窮し、体感として変化を望む人が増えた場合には、この状況も変わるかもしれない)

 もう一つ、国際的な政治情勢の中での日本の立ち位置が、ガザ地区などの問題などを考えにくくさせているという事情がある。長い間世界では、アメリカ・ヨーロッパが主導する秩序が強い影響を及ぼす時代が続いた。その国際社会の秩序は、キリスト教を出自とする近代社会の枠組みである。そして、キリスト教に本格的なコミットをしたことがない日本が、本心に多神教の心性を色濃く残したまま、その枠組みに西欧に追従する形で参加してきた。特に第二次世界大戦後における敗戦後の日本のあり様は、「対米従属」と呼ばれるほど自らの意思決定を回避してアメリカに追従するものだった。そうすることで西側陣営の中で非西欧諸国としては最高位に近い位置を占め、政治的経済的な影響力を行使してきた。しかし現在、その立ち位置が揺らいでいる。
 そもそも、何らかの権力の庇護下にある場合、その権力者の負の側面について言及することは困難である。ボスの悪事を見て見ぬふりをすることは、手下としての振る舞い方の基本だろう。日本は独立国家として振る舞える状況があったのにもかかわらず、自らそれを放棄し、アメリカの手下であることを選択し続けた。その場合に当然、ボスであるアメリカ、そして西欧諸国がダブル・スタンダードを常に指摘されるイスラエルの問題について、積極的に発言することが難しくなる。つまり、ボスであるアメリカに気を使わなければならないこと、そしてそのような形でアメリカに従属していることを認めたくない心理が働いていることが、日本人がパレスチナ問題を考えることを難しくしている要因のもう一つである。もっとも、イスラエルの問題について言及することは、ユダヤ人の政治的な影響力の強さから、世界中の人が言及しにくい問題になっているという事実もある。
 アメリカ・ヨーロッパが中心的な役割を担って維持してきた近代の枠組みが、揺らいできている。ウクライナ情勢についても、アメリカ・ヨーロッパに同調してウクライナを支持することなく、ロシアに同情的な国家が意外に多かったことが伝えられている。これは、世界で多くの国が経済的な実力を蓄えつつあるという理由もあるが、西欧近代の価値観への信頼感が揺らいでいるという思想的な状況も反映しているだろう。その信頼感が揺らいだことの原因の一つは、近代的な理念に抵触する場面があっても、パレスチナ問題でイスラエルを贔屓する姿勢を欧米が続けてしまったことにある。
 それでは、日本は今回の問題にどのような姿勢を示すべきであろうか。ハマスの残虐性を強調してイスラエルを支持すべきという意見も、今までのイスラエルの蛮行を問題としてパレスチナを支持すべきという意見もある。私はどちらにも同意できない。一神教の原理の残念な部分がもっとも煮詰まった場面で、多神教的なセンスを発揮することが許容されるのならば、そうするべきである。産油国を敵に回すことができないという事情もあるかもしれない。G7がイスラエル支持の共同声明を発表したことに、カナダとともに日本が参加を見合わせ、イスラエルに過激な報復を行うことの自重を求めたのは、妥当な判断に感じられた。

 国際政治の場面で、日本は一国で生きていくことが不可能なほどの強い依存をアメリカに対して示し続けてしまった。したがって、アメリカ・ヨーロッパが主導する秩序が影響力を減じているとはいえ、その枠組みを外れる選択をすることは不可能である。しかし、現状の対米従属の状況は、行き過ぎている。その状況の中で日本は、西欧の国々の主導で維持されている枠組みを尊重しつつも、独立国としてのあり方を回復させていかねばならない。その意味で、イスラエルの問題でアメリカとは別の立場を示しえたこと、それに対してアメリカからの強い反発がなかったことは良かったと思う。
 このような文脈で、対米従属やアメリカ・イスラエルの負の側面が顕在化したという話題になると、徹底的にアメリカやイスラエルのあり様を批判し、極端な政治的アクションを示すことを扇動する人々がいる。今回ならば、ハマス支持を主張することだろう。しかし残念ながらこれは、心理的には親にベッタリと甘えて育ち、自力で社会の中で生きていく力がないのにもかかわらず、強がっている若者と同じ心理である。アメリカの庇護がなくても、「一人でできる」と勇んで、日本が現行の秩序から性急に飛び出そうとしても、手痛い失敗を味わうことが目に見えている。

 ところで、パレスチナ問題は一神教の残念な部分が煮詰まったような問題だから、日本人的な多神教的なセンスが優越するのだ、と日本人が高ぶった思いを持ったとしたら、それも別の苦しい事態につながるだろう。日本人らしく「喧嘩両成敗」などと発言しようものならば、イスラエルの当事者からもパレスチナの当事者からも、本気の怒りと恨みを引き受けてしまう危険性がある。
 日本人は客観的であいまいな態度を一貫して維持することを、徳が高く知恵がある態度であると自認して高ぶった感覚をもってしまいやすい。しかし、すべてに良い顔を見せるような態度は、心底では何も受け入れないことにつながっている。イスラエルにもパレスチナにも玉虫色の距離感を保つ態度というのは、本当に困っている人に親身に寄り添って、深い信頼関係と友情をはぐくむ機会を見送っているというコストを払っていることについては、自覚しておいてよいだろう。
 しかし今回は、そのリスク・コストがあったとしても、そうするより仕方がない。いつか自分たちの実力を高め、明確な判断と行動を示せるようになりたいものであるが、それができないのが実情だろう。

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