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実はみんなグル?~満州人脈をたどれ!~

ニホンのリベラル層は、「ニッポンの保守層」が嘘っぱちだと考えていますが、「欧米リベラルに追随するニッポンのリベラル層」が嘘っぱちだとは思っていないようです。

逆に、ニホンの保守層は「ニッポンのリベラル層」が嘘っぱちだと考えていますが、「ニッポンの保守層(皇室含む)」が嘘っぱちだとは思っていないようです。

でも実際には、日本の政界・財界・メディア・言論界・芸能界・スポーツ界そして裏社会を基盤とする、「ニッポンのリベラル層」と「ニッポンの保守層」は、みんなグルなのでは? 


2021年春以降、わたしはそう疑いながら、日本の様子を見ています。

ニッポン勢が、わざわざ二手に分かれてドンパチ攻撃し合っているのは、何かしら「インセインな(正気の沙汰ではない)目的」のために、ニホンを分断する必要があって、ニホンに大きな溝を作りたいからではないか?と。

溝の両側はどちらも「ニッポン」

上の図は、一番単純な左派・右派対立を例に取っていますが、たとえば、一方では「韓流ブーム」を煽っておきながら、他方では「嫌韓ブーム」を煽るというのも同じ構図です。韓国が好きか嫌いかで分断させるんですね。

今は新型コロナワクチンも、分断に利用されてますね。ワクチンを打っていようがいまいが、少なくとも国民同士で対立する必要なんて全然ないのに、前線で二手に分かれてドンパチやってるせいで、誤誘導されている。


そうした二項対立の両勢力の根っこの部分には、共通して「満州」があるのだと、澤野大樹氏はずっと指摘しつづけています。

そこでウィキペディアから、その片鱗が伺える事実を拾い集めてみることにしました。

電通は元「満州国通信社」、当時の主筆はアヘン王


まずはメディアの総元締め、電通からスタートしましょう。

電通 - Wikipedia

1932年 - 満州事変を受けて、政府は日本の情報通信機関を一元化して国家的通信社を作る必要があると判断。満洲国において、電通と当時電通と競合関係にあった日本新聞聯合社の通信網を統合した国策会社「満洲国通信社」(国通)が創立。同社は新京に本社を置き里見甫を主筆として活動していた。

Wikipedia

テレビ広告をほぼ一手に引き受ける電通が、メディアや芸能界に多大な影響力を持つ点は、みなさまご承知のとおり。嵐の櫻井翔氏の父親である、元総務事務次官櫻井俊氏が、先日まで代表取締役副社長を務めていた会社でもありますね。

電通は創業当時は通信社でした。満州事変が起こると、国の命令で合併して「満州国通信社」となります。当時の主幹兼主筆は里見甫氏。佐野眞一氏によれば「里見は、電通が今のような広告会社になったきっかけを作った一人である」とのこと。

里見甫氏のことはまったく知りませんでした。

里見甫 - Wikipedia

里見 甫(さとみ はじめ、1896年(明治29年)1月22日 - 1965年(昭和40年)3月21日)は、ジャーナリスト、実業家。三井物産のもとで関東軍と結託しアヘン取引組織を作り、阿片王と呼ばれた。

1931年9月に満州事変が勃発すると、翌10月に関東軍で対満政策を担当する司令部第4課の嘱託辞令を受けて奉天に移り、奉天特務機関長土肥原賢二大佐の指揮下で、甘粕正彦と共に諜報、宣伝、宣撫の活動を担当する。これらの活動を通じ、中国の地下組織との人脈が形成された。また司令部第4課課長松井太久郎の指示により、満州におけるナショナル・ニュース・エージェンシー(国家代表通信社)設立工作に務め、陸軍省軍務局課長鈴木貞一の協力のもと、新聞聯合社(以下「聯合」)の創設者岩永裕吉や総支配人古野伊之助、電通の創業者光永星郎との交渉を行い、1932年12月、満州における聯合と電通の通信網を統合した国策会社である満州国通信社(以下「国通」)が設立され、初代主幹(事実上の社長)兼主筆に就任する

1937年11月、上海に移り、参謀本部第8課(謀略課)課長影佐禎昭に、中国の地下組織や関東軍との太い人脈と、抜群の中国語力を見込まれ、陸軍特務部の楠本実隆大佐を通じて特務資金調達のための阿片売買を依頼される。1938年3月、阿片売買のために三井物産および興亜院主導で設置された宏済善堂の副董事長(事実上の社長)に就任する。ここで、三井物産、三菱商事、大倉商事が共同出資して設立された商社であり実態は陸軍の特務機関であった昭和通商や、中国の地下組織青幇や紅幇などとも連携し、1939年、上海でのアヘン密売を取り仕切る里見機関を設立。ペルシャ産や蒙古産の阿片の売買によって得た莫大な利益を関東軍の戦費に充て、一部は日本の傀儡であった汪兆銘の南京国民政府にも回した。また、里見機関は、関東軍が極秘に生産していた満州産阿片や、日本軍が生産していた海南島産阿片も取り扱っている。この活動を通じて、青幇の杜月笙、盛文頤や、笹川良一、児玉誉士夫、吉田裕彦、岩田幸雄、許斐氏利、阪田誠盛、清水行之助らとの地下人脈が形成された。

1943年12月、宏済善堂を辞し、満鉄と中華航空の顧問となる。1945年9月に帰国し京都や東京に潜伏するが、1946年3月に民間人第一号のA級戦犯容疑者としてGHQにより逮捕され、巣鴨プリズンに入所する。1946年9月、極東国際軍事裁判に出廷して証言を行い、同月不起訴となり無条件で釈放される。その後、渋谷峰岸ビル(現在のQFRONT)に日本商事(医薬品関連の日本商事とは別)を構え代表に就任する。戦後、祖神道本部の熱心な信者となった。

1965年3月21日、家族と歓談中に心臓麻痺に襲われ死去。享年70。千葉県市川市国府台の總寧寺にある里見の墓の墓碑銘「里見家之墓」は、岸信介元首相の揮毫による。

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この人はすごいですね。電通・アヘン・上海・巣鴨プリズン・無条件釈放ときて、岸信介であがり。ロイヤルストレートフラッシュ的な経歴。

ここで少し寄り道して、日本の傀儡政府だった(知りませんでした💦)という南京国民政府の初代主席、汪兆銘の項目を見てみましょう。


上海閥の江沢民の父は、日本の傀儡南京政府の元役人


汪兆銘 - Wikipedia

なお、戦後日本の総理大臣を務めた福田赳夫は汪兆銘政権の財政顧問であり、のちに中華人民共和国主席となった江沢民の父(江世俊)は、汪の南京国民政府の官吏であった

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江沢民とのつながりが出ましたね。福田赳夫元首相(清和会のプリンスと呼ばれる福田達夫氏の祖父)の名前も出ています。

江沢民 - Wikipedia

江沢民の実父江世俊は、日本軍占領下の江蘇省で日本の特務機関ジェスフィールド76号に協力をしていたとされ、日中戦争時代の日本の傀儡政権である汪兆銘政府の官吏だった。

1966年に第一機械工業部が武漢市に新設した武漢熱工機械研究所の所長兼党委員会書記代理に任命される。同年に発動された文化大革命では実権派として攻撃されたものの、「革命烈士の子弟」とされたため、被害は少なかった。

1989年6月4日、第二次天安門事件が発生。その直後の6月23日から24日にかけて開催された第13期4中全会において、全職務を解任されて失脚した趙紫陽に代わり、江沢民は鄧小平によって党総書記・中央政治局常務委員に抜擢された。

父が汪兆銘政権の官吏であり、自身も日本軍が管轄する南京中央大学に在籍していたため、日本語を少し話すことができ、酔うと日本語で炭坑節を歌うことがある

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「特務機関ジェスフィールド76号」て何?と思ったので調べてみたら

ジェスフィールド76号 - Wikipedia

ジェスフィールド76号(極司非爾路76號)は、日中戦争下の上海で日本軍によって設立された対重慶特務工作機関。後に汪兆銘政権が樹立されると、正式な政府機関となり、国民党中央委員会特務委員会特工総部と称した。

日中戦争下の上海では、藍衣社やCC団による抗日テロが頻発しており、対応に苦慮した日本軍当局は、1939年、親日派中国人による取締機関を設立する。本部が共同租界のジェスフィールド路76号にあったことから、その住所がそのまま呼称となった。

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江沢民の父親は、ただの「傀儡政権の役人」ではなさそう。中国政府は否定しているようですが、「反日中国人取締機関」に協力していた親日派で、そこから日本の傀儡政権の役人となった人なんですね。

江沢民自身も、日本軍が管轄する南京中央大学に通ったインテリで、反日テロ取締組織の協力者(親日派)の息子なのに、なぜか「革命烈士の子弟」とされて文化大革命を免れている。武漢の党委員会の書記代理を務め、それ以降もメキメキと頭角を現し、天安門事件直後に大抜擢

この人はほんとに臭い。プンプン臭いますね。。。


岸信介は元満州国総務庁次長


さて、「満州国に強い影響力を有した軍・財・官の5人の実力者」のことを「弐キ参スケ(にきさんすけ)」と呼ぶんだそうです。

弐キ参スケ - Wikipedia

東條英機(とうじょう ひでキ、在満期間:1935年 - 1938年、離満前役職:関東軍参謀長)
星野直樹(ほしの なおキ、在満期間:1932年 - 1940年、離満前役職:国務院総務長官)
鮎川義介(あいかわ よしスケ、在満期間:1937年 - 1942年、満業(満州重工業開発株式会社)社長)
岸信介(きし のぶスケ、在満期間:1936年 - 1939年、離満前役職:総務庁次長)
松岡洋右(まつおか ようスケ、在満期間:1921年 - 1930年、1935年 - 1939年、離満前役職:満鉄総裁)

第二次世界大戦終結後、5人ともA級戦犯容疑者として逮捕された。鮎川・岸の2人は不起訴となったが、東條・星野・松岡の3人は起訴された。東京裁判において、松岡は公判中に病死し、東條には死刑、星野には終身刑の判決が下った(星野は後に釈放)。

「弐キ参スケ」は、当時の満州国での実力者を並べ称したものであり、彼ら全員に同盟関係があったというわけではない。岸は東條内閣の閣僚となったが、倒閣工作を行い、閣内不一致で東條内閣を退陣に追い込んでいる

満州三角同盟
5人のうち、鮎川義介・岸信介・松岡洋右の3人は満州三角同盟とも称された。3人はいずれも山口県周防地方の生まれ、育ちである。この3人の間には姻戚関係もある。

松岡の妹婿の佐藤松介は、岸の母方の叔父である。岸の実弟である佐藤栄作は、叔父夫妻の長女で松岡の姪の寛子と結婚して婿養子となっている。
のちのことになるが、岸の長男信和の妻は、鮎川の従弟田辺譲の娘である。

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「弐キ参スケ」の5人のうち、東條英機をのぞく、岸信介とその親戚と元上司は死刑を免れていた、と。

では、岸信介の項目には何が書かれているのでしょうか?

岸信介 - Wikipedia

岸 信介(きし のぶすけ、1896年〈明治29年〉11月13日 - 1987年〈昭和62年〉8月7日)は、日本の政治家、官僚。旧姓佐藤(さとう)。満州国総務庁次長、商工大臣(第24代)、衆議院議員(9期)、自由民主党幹事長(初代)、自由民主党総裁 (第3代) 、外務大臣(第86・87代)、内閣総理大臣臨時代理、内閣総理大臣(第56・57代)、皇學館大学総長 (第2代) などを歴任し、「昭和の妖怪」と呼ばれた。

本籍地は山口県熊毛郡田布施町

旧制山口中学校、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学卒業後、農商務省、商工省にて要職を歴任。建国されたばかりの満州国では国務院高官として満州産業開発五カ年計画を手がけ、「弐キ参スケ」の一角を占める。その後、日本の商工省に復帰し、次官に就任する。東條内閣では商工大臣として入閣し、のちに無任所の国務大臣として軍需省の次官を兼任する。昭和戦前は「革新官僚」の筆頭格として陸軍からも関東軍からも嘱望された

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これを読むと、岸信介という人は「商工省」畑を歩いてきた人だということがわかりますね。今でいう「経済産業省」。

そういえば、メディアって、「財務省(大蔵省)」はしきりに悪役として槍玉にあげますが、「経済産業省」には悪いイメージをつけませんよね。かわりに、経済界の悪役は「経団連」が担っている。省庁のほうが企業よりも偉いんですかね???

「革新官僚」というのもよくわかりません。リベラルな官僚ということでしょうか?

革新官僚 - Wikipedia

星野直樹企画院総裁、岸信介商工次官ら満洲で経済統制の実績を挙げていた高級官僚、および美濃部洋次、毛里英於菟(ひでおと)、迫水久常らの中堅官僚が知られる。モデルはソ連の計画経済であり、秘密裡にはマルクス主義が研究されていた。現に革新官僚たちはソ連の五カ年計画方式を導入した(第7回コミンテルン世界大会と人民戦線も参照)。革新的・社会主義的な立案を行ったため、「共産主義」として小林一三らの財界人や平沼騏一郎ら右翼勢力から強い反発を受け、1941年に企画院事件を生じた。

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なるほど、「革新=共産主義」というのは、「保守=国粋主義」の対義語として生まれたようですね。日本共産党がなぜかリベラルと呼ばれる側に立っているのは、この名残なのでしょうか。共産主義者をリベラルと呼ぶなら、中国もロシアもリベラルってことになりそうですが……。米国民主党と中国共産党の蜜月ぶりを考えると、あながちまちがってない?


岸信介の逸話や人脈は実に興味深いですね。

満州時代には料亭で酒や芸者遊びにも通じ、軍部やアヘン業者とも付き合える豪胆さがあった

正力松太郎などとともにアメリカ中央情報局(CIA)から資金提供を受けていたとされる。岸に与えられたコードネームは明かされていない。2007年に米国務省が日本を反共の砦とするべく岸信介内閣、池田勇人内閣および旧社会党右派を通じ、秘密資金を提供し秘密工作を行い日本政界に対し内政干渉していたことを公式に認めている。

また、岸の言葉として「政治は力であり、金だ。」というものがある。岸内閣の頃に金権政治の体質が始まったとする見方もあり、鳩山一郎は岸をさして「あんなに金に汚くてはいけない」と言っていたという。しかし岸は田中角栄の金の集め方を危険視しており、「金は濾過機を通せ」と語っていた。なお、岸にはいくつかの戦後賠償に関する汚職疑惑が浮上したが、いずれも立ち消えになっている。

岸は安全保障論議で吉田茂とは鋭く対立したが、親戚関係にあり

岸は中国国民党の蔣介石総統とは勝共連合の設立(1954年)を通じて親密

国際勝共連合を通じて統一教会教祖文鮮明との交遊は晩年まで続いた

岸が巣鴨プリズンへ留置される前に、天照皇大神宮教の教祖・北村サヨは「心配せんでもええ。岸はいずれ首相になる。」と予言していったという。その後も岸を訪れており、北村の葬儀には岸も駆けつけている

創価学会第2代会長である戸田城聖とは個人的な付き合いがあり、1958年3月16日に大石寺大講堂で行われた広宣流布の記念式典に出席することになっていた。しかし、直前になって横やりが入ったため出席を断念。代理として、安倍晋太郎・洋子夫妻、南条徳男・前建設大臣を出席させた。

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「勝共連合(しょうきょうれんごう)」とはなんぞや?

国際勝共連合は反共主義の政治団体。

世界基督教統一神霊協会(統一教会)の教祖、文鮮明が1968年1月13日に韓国で、同年4月、日本で創設した。日本の初代会長は「統一協会」の会長でもあった久保木修己。名誉会長は笹川良一、顧問団に小川半次、大坪保雄、辻寛一、千葉三郎、玉置和郎、源田実らがいた。

国際勝共連合は韓国の「勝共運動」の影響を強く受けている。「勝共運動」は、韓国においては、「反共法」まで制定して共産主義に対抗していた朴正煕政権の庇護を受けたと言われる。

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なるほどねえ、満州で五か年計画を指揮した共産官僚が、戦後は反共主義の活動家と親しくしていたと。

これは正力松太郎氏もまったく同じで、

正力松太郎 - Wikipedia

警察庁出身、読売新聞社長、日本テレビオーナーという保守派の経歴に見えますが、戦前は「太平洋戦争下での軍部の方針を追認し支える体制」の中心である「大政翼賛会」の総務に就任。つまり戦前は、保守というより、親軍部だったんですね。昭和10年には、右翼団体のテロの標的にされ、瀕死の重傷を負っています。右翼団体に標的にされるということは左翼だったってことですよね? 戦後、巣鴨プリズンに収監されたあと釈放というのも、共産官僚、岸信介とおそろいです。

また、朴正煕元大統領というのは、朴槿恵大統領の父親ですね。つまり、安倍晋三首相と朴槿恵大統領は「国際勝共連合を通じて仲の良かった両人の孫であり子である」ということ。そんなふたりが日韓外交では、いがみ合っているように見えましたが……?

あと、北村サヨさんというのは、

「踊る宗教」こと天照皇大神宮教の教祖。山口県玖珂郡日積村(現柳井市日積)に出生。21歳の時に結魂を契機に山口県熊毛郡田布施町の北村家に嫁ぐ。自民党参議院議員の北村経夫は孫。

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出ました、田布施町。なるほどねえ。

とまあ、戦後は「反共親米」の保守政治家となった岸信介氏ですが、では、「冷戦期にソ連から膨大な資金援助を受けていた」という、いわゆる「真逆の思想」である共産党・社会党系列の政治家も見ていきましょうか。


志位共産党委員長の伯父はGHQとKGBの元二重スパイ、蓮舫議員の祖母は上海日本軍と深い関係


2000年からもう22年間、無選挙で共産党委員長の座に座りっぱなしの志位和夫氏。正直、わたしはリベラルを自認している時代からずっと思ってましたね。リベラルを名乗るならせめて選挙くらいしなさいよって。

志位和夫 - Wikipedia

安倍晋三は同い年で当選同期であり、個人的関係は悪くない。国会内でのあいさつ回りなどの際、安倍とのみ和やかな会談になると報じられることもある。ただし政治の上での批判は徹底しており、安倍内閣を「戦後最悪の反動政権」と評している。

実父は元・千葉県船橋市議会議員(日本共産党)の志位明義であり、両親とも教員で日本共産党員であった。旧日本陸軍中将志位正人は実祖父、第二次世界大戦終戦時の日本軍第3方面軍参謀(少佐)でシベリア抑留後は外務省職員でありラストヴォロフ事件によりソ連の工作員(KGBのスパイ)であった事が発覚した志位正二は伯父

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志位委員長の祖父も伯父も旧陸軍所属。しかも伯父の志位正二氏は戦後にGHQとKGBとの二重スパイになるんですね。

志位正二 - Wikipedia

1948年11月、シベリアより復員。しかし帰国後の志位は1949年2月からGHQ参謀第2部(G2)の地理課に勤め、抑留帰還者の尋問調書からソ連や中華人民共和国の地誌を作成していた。1950年6月、GHQの取調べを受ける。

1951年10月以降、G2在職のままソ連国家保安委員会(KGB)にエージェントとして雇われる。1953年11月、外務省アジア局調査員となるが、「二重スパイ」の活動は継続した。

ユーリー・ラストヴォロフがアメリカに亡命した後の1954年2月5日、警視庁公安部に自首し、自身がソ連の工作員(スパイ)であったことを認めた。しかし罪には問われず、その後、海外石油開発株式会社常務となる。1973年3月31日、シベリア上空を飛行中の日本航空のダグラス DC-8型機の機内で死去した。

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GHQの参謀第2部というのは諜報部だそうです。

参謀第2部 - Wikipedia

諜報活動や検閲を担当し、日本語文書の翻訳、技術情報の収集などを任務とした

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巣鴨プリズンもそうですが、「しかし罪には問われず」ってところがミソですよね。罪に問われないばかりか、その後は外国の石油開発会社の常務になっているんですから。

志位委員長支持者から見た場合、伯父がKGBのスパイだったことよりも、GHQの参謀(諜報部員)だったことのほうが、「らしくない」親戚がいたってことになるんでしょうか。

ちなみに志位正二氏が「自首して罪に問われなかった」1954年当時の内閣は、第5次吉田茂内閣。「岸信介と対立しているが親戚」の吉田茂が首相だった頃です。

そして、志位正二氏が戦時中に参謀として所属していた日本軍第3方面軍というのはですね

第3方面軍 (日本軍) - Wikipedia

1943年(昭和18年)10月に編制され、満州南部で治安維持に当っていた。大戦末期には満州で召集した邦人男子を根こそぎ動員して師団を編制した為、兵員の全体にまでは武器も十分に行き届かない寡弱部隊も多くあった。対ソ防衛戦に参加している。

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満州の部隊だったんですよね、これがまた。


それから、もうお一方、蓮舫参議院議員の祖母、陳杏村氏について。

大日本帝国軍の人脈メモ(海軍)|けんぱ|note 

上記の記事にも書きましたが

蓮舫 - Wikipedia

1909年、祖母の陳杏村が生まれたのは日本統治時代の台湾(1895年 - 1945年)。1926年に台北女子職業学校を卒業後、東京銀座服装裁式様学校に入学し、1935年に卒業後、台湾に帰って1935年にファッションデザイナーとして洋服店を開業。

上海が孤島時期(中国語版)と呼ばれた日本軍による上海占領の1937年11月12日から1941年12月8日の間、上海駐屯の日本軍高官と深い関係を築き、上海南洋煙草公司の総代理、英米煙草公司総経理など有利な地位を得て富をつかんだ。そして彼女の個人の名義で日本軍に、2機の戦闘機「杏村1号」、「杏村2号」を寄贈した。

佐藤内閣時代の1966年11月1日第52回国会農林水産委員会第4号「バナナ等輸入果実その他に関する件」で、自由民主党の黒い霧事件として取りざたされた。その趣旨は、「日本バナナ輸入組合理事長砂田勝次郎氏を激励する会」の世話人が岸信介元首相、参加者が当時の川島正次郎自民党副総裁、赤城宗徳同政調会長をはじめ中村梅吉文相、中村寅太運輸相、清瀬一郎前衆議院議長、田中伊三次同副議長、南条徳男、神田博、青木一男、増田盛、石田博英、松田竹千代、江崎真澄ほか自民党国会議員多数という事実を以て、台湾バナナ輸入に関して不正融資や贈収賄が疑われ、農林水産政策に関する調査が行われたというもの

Wikipedia

蓮舫議員の祖母は、戦時中に上海駐屯の日本軍高官との付き合いで富を築いた。また、戦後に起こった「岸信介の関わる不正融資・贈収賄疑惑事件」の台湾側の当事者だったということ。

もちろん、普通なら、伯父や祖母がどんな思想で何をしたかなんて、本人とは関係がありません。その人自身の行動で判断されるべきで、親戚の先入観で評価されるべきではない。それはそのとおりです。

ただ、ここまで見てきたとおり、「彼ら」はどうも違うようなんですね。地脈、金脈、人脈。すべてが血脈に統合され、子孫に受け継がれているように見えます。

つまり、「満州(岸信介)と関わりのある血縁者を持つ、ふたりの有名な野党議員」が、どういうわけか「岸信介の孫」を舌鋒鋭く批判しているというわけです。そしてその批判によって事態が好転することはなく、むしろ〝敵〟をアシストする形になっている。

その不可解さについて、どうか「陰謀論」という単語をいったん頭から追い出して、じっくり考えてみてほしいのです。


アウンサン・スーチー氏の父親は日本軍から資金援助を受けたビルマ建国の父


さて、満州の資金源アヘンですが、ミャンマーでの栽培が2006年から増加しています。

CNN.co.jp : 黄金の三角地帯のアヘン 生産量が3倍に、経済規模2兆円

ミャンマーとラオス、タイに囲まれた「黄金の三角地帯」と呼ばれる地域におけるアヘンの生産量が06年以降で3倍に増加しており、違法な薬物取り引きの経済規模は163億ドル(約1兆9800億円)に及ぶと指摘した。

報告書によれば、ミャンマーとラオスにおける14年のケシ栽培の耕作面積は6万3800ヘクタールと前年の6万1200ヘクタールから約4%増加した。耕作面積の増加は8年連続。

アヘンの生産量は約762トンに上り、これは約76トンのヘロインの製造が可能な量だという。

ケシ栽培の大部分が行われているのはミャンマーだ。特に中国との国境に位置する北部シャン州で盛んで、農家の主な収入源となっているほか、反政府組織の資金源ともなっているという。

CNN.co.jp  2014.12.08 Mon posted at 17:10 JST

そして、ミャンマーのアウンサン・スーチー氏の父親アウンサン氏は、旧日本軍との関わりが深く、日本名も持っていた方だそうです。

アウンサン - Wikipedia

日中戦争に伴い日本軍によりアモイが陥落し、ビルマ独立を支援することで援蒋ルートの遮断を企図した鈴木敬司大佐により日本へ逃れ箱根の大涌谷に滞在していたという口碑がある。

翌1941年2月、日本の資金援助と軍事援助を約束された彼は一旦ビルマに戻ると、青年たちを募り「三十人の志士」と後に呼ばれる仲間を率いて中国の海南島へ出国した(当時は日本軍の占領下)。彼らは鈴木大佐の南機関のもとで独立戦争のための苛酷な軍事訓練を受けた。

太平洋戦争開戦後の1941年12月16日に、アウンサンと同志たちは南機関の支援を得て、ビルマの隣国であるタイ王国の首都バンコクでビルマ独立義勇軍を創設。日本軍と共に戦い、1942年3月にラングーンを陥落、1942年7月ビルマからイギリス軍を駆逐することに成功し、ビルマ独立義勇軍をビルマ防衛軍に改組した。南機関はバー・モウを中央行政府長官に据えてビルマに軍政を敷き、鈴木大佐は離任した。 1943年3月にはアウンサンは日本に招かれ、わずか28歳の若きリーダーと称えられ旭日章を受章し、同年8月1日にバー・モウを首相とするビルマ国が誕生すると国防相になった。ビルマ防衛軍はビルマ国民軍に改組された。この時期には、「面田紋次」という日本名を名乗っていた

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ここには直接、満州の語は出てきませんが、アウンサン将軍を助けた「南機関」という特務機関(諜報機関)の項目には

南機関 - Wikipedia

鈴木大佐は活動開始にあたって上海の特務機関員であった樋口猛、興亜院の杉井満、満鉄調査部の水谷伊那雄らに協力を要請

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とありますね。

そのミャンマーで、昨年2月に軍のクーデターがあったのは記憶に新しいです。


清和会の本当の敵は誰か?


2021年3月19日の麻生太郎氏のこの発言を覚えていますか?

麻生財務相「マスクはいつまでやるの?」 コロナ長期化に愚痴 | 毎日新聞 (mainichi.jp)

麻生太郎氏が報道陣に逆質問「マスクはいつまでやることになってるの?」 | ハフポスト 政治 (huffingtonpost.jp)

麻生太郎財務相は、3月19日の閣議後の記者会見で、マスクをいつまでつけるべきか報道陣に質問した。毎日新聞などが報じた。1都3県の緊急事態宣言は21日で解除されるものの、新型コロナウイルスの感染拡大の収束が見えない状況に、苛立ちを募らせた格好だ。

黒いマスクをつけて会見した麻生氏は「マスクなんて暑くなって、口の周りがかゆくなって最近えらい皮膚科がはやっているそうだけど」と愚痴をこぼした。その上で、マスクについて「いつまでやるんだね?」と報道陣に逆に尋ねた。

その上で「真面目に聞いてるんだよ、俺が。あんたら新聞記者だから、それくらい知ってんだろ」と苛立ち気味に質問を続けた。報道陣から回答があったのかは不明。

ハフポスト 2021年03月19日 16時9分 JST

これを聞いたとき、すごく不思議だったんですよね。「あれ、あなたとメディアってグルなんじゃないの?」と思ったので。

でも、そうじゃないことを知ったあとは、ものすごく腑に落ちました(下記記事参照)

【改稿】総裁選と薩長の禍根|けんぱ|note


自民党は、幅広い思想の政治家を抱える巨大政党ですが、実は本物の野党は、自民党の中にいるのかもしれません。

この表をじっーーーーくりと見てみてください。
もしも、◇(清和会と経世会)と ◆(野党)が実はグルだったとしたら……? 

☆1991年11月 
宮沢喜一(宏池会)内閣

✓自民党議員が集団離党
・新生党(羽田孜、小沢一郎ら羽田派)◇→◆
・新党さきがけ(武村正義、鳩山由紀夫ら)◇→◆

◆1993年3月  
細川護熙(日本新党)非自民連立内閣
◆1994年4月  
羽田孜(新生党)非自民連立内閣
◆1994年6月 
村山富市(日本社会党)自社さ民連立内閣
 ・1995年1月 阪神淡路大震災
 ・1995年3月 地下鉄サリン事件

◇1996年1月 
橋本龍太郎(竹下派)自社さ民連立内閣

◇(?) 1998年7月 
小渕恵三(佐藤派→田中派→竹下派→小渕派)自民単独→自民・自由党(小沢党首)連立→自自公連立→自公・保守党(自由党から分裂/扇千景・野田毅・二階俊博)連立内閣
✓2000月4月 小渕首相、脳梗塞で倒れ辞任 

◇2000年4月 
森喜朗(清和会) 自保公連立内閣
2000年11月 加藤の乱(第2次森内閣打倒を目指して、与党・自民党の加藤紘一・山崎拓らが起こした倒閣運動)

◇2001年4月 
小泉純一郎(清和会)自保公→自公連立内閣
◇2006年9月 
安倍晋三(清和会)自公連立内閣
✓2007年9月 安倍首相 参院選敗北や病により辞任
◇2007年9月 
福田康夫(清和会。群馬。父・福田赳夫は岸派から分裂し、福田派(清和政策研究会)を作る)自公連立内閣  
 
2008年9月 
麻生太郎(宏池会→大勇会(河野派)→為公会(麻生派))自公連立内閣

◆2009年9月 
鳩山由紀夫(田中派→竹下派(経世会)→新党さきがけ→民主党)民主・国民新党・社民党→民主国新連立内閣
◆2010年6月 
菅直人(市民運動→社会民主連合→新党さきがけ→民主党)民主国新連立内閣
 ・2011年3月 東日本大震災・福島第一原発事故 
◆2011年9月  
野田佳彦(日本新党→新進党→民主党)民主国新連立内閣

◇2012年12月 
安倍晋三(清和会)自公連立内閣
 ・2017年1月 トランプ政権誕生
 ・2019年12月 新型567、武漢で確認

◇(?) 2020年9月  
菅義偉(秋田。父親が南満州鉄道職員/中曽根派→小渕派→宏池会反加藤の堀内派→無派閥)自公連立内閣

☆2021年10月 
岸田文雄(広島。宏池会/「加藤の乱」に血判状をしたためて参加)自公連立内閣

なぜ、「自民党の宮沢内閣」ができただけで、自民党議員が大量離党したのか?
なぜ、「自民党の森内閣」ができただけで、加藤の乱が起こったのか?

安倍晋太郎 - Wikipedia

政界のプリンスと呼ばれ、竹下登、宮澤喜一と並びニューリーダー(安竹宮)の一人に数えられて将来を嘱望された。1986年に派閥の領袖となり、次期総理を確実視されるまでに至ったが目前にして病死し、悲運のプリンスと呼ばれた。

この(初当選)時の総選挙では竹下登、金丸信が初当選しており、新人時代からの盟友関係が後の「安竹同盟」まで繋がった。

Wikipedia

そして安倍晋太郎氏は、なぜ、「1985年に田中角栄に反旗をひるがえした」竹下登氏と仲が良かったのか?

①清和会(安倍晋太郎:旧岸信介派:経済産業省)
②経世会(吉田茂派→佐藤栄作派→田中角栄派→竹下登(反田中)派)
③宏池会(吉田茂派→池田勇人派:大蔵省)

田中角栄氏というのは、☆(清和会の敵)だったのでしょうかねえ……?

そして、もし「二度あることは三度ある」なら、次の政権は◆ということになりますね😊


忘れちゃいけない731部隊


そして、満州といえば、大日本帝国軍の最大の汚点にして最大の罪───人々を「マルタ」と呼び、実験材料にした非道の犯罪のことを忘れてはなりません。

731部隊 - Wikipedia

第二次世界大戦期の大日本帝国陸軍に存在した研究機関のひとつ。正式名称は関東軍防疫給水部本部で、731部隊の名は、その秘匿名称(通称号)である満州第七三一部隊の略。なお、1941年3月に通称号が導入されるまでは、指揮官であった石井四郎の苗字を取って石井部隊と通称された。

満州に拠点を置き、兵士の感染症予防や、そのための衛生的な給水体制の研究を主任務とすると同時に、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関でもあった。そのために人体実験や、生物兵器の実戦的使用を行っていたとされる。

常石敬一や秦郁彦によれば、731部隊は単に生物兵器の研究を行っていただけではなく、生物兵器を実戦で使用していた。731部隊ではペストやチフスなどの各種の病原体の研究・培養ノミなど攻撃目標を感染させるための媒介手段の研究が行われ、寧波、常徳、浙贛(ズイガン)などで実際にペスト菌が散布されたと常石は述べている。

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その後、731部隊の研究データと軍医たちはどうなったのか? 

731部隊の実験データの行方
ウィリアムズとワラスは、731部隊の実験データの多くは元隊員たちが密かに持ち帰ったため、最終的にはアメリカ軍の戦後の生物兵器開発に生かされたと述べている。また、人体実験に手を染めたものの、ハバロフスク裁判を免れた軍医たちは連合国から戦犯として裁かれることなく、大学医学部や国立研究所や各地の病院に職を得たと述べている。

実験データのアメリカとの取引
常石敬一が編訳した米軍資料によればアメリカ政府は、日本の生物戦研究情報は国家の安全にとって価値があり、他国に入手されないためにも「戦犯」裁判にかけるべきではない、と結論したという

Wikipedia

つまり、お咎めなしで、普通に大学や病院に就職したんですね。
お土産が何かは、いわずもがなというところでしょうか。

ちなみに1947年に元隊員たちの事情聴取を行なったのは、「米軍の細菌戦研究機関キャンプ・デトリック(現フォート・デトリック)のノーバート・フェル博士ら」だそうです。

1989年7月に東京都新宿区戸山の旧陸軍軍医学校跡地に建設予定の国立感染症研究所建設現場で、四肢が様々な位置で切断された形跡が残った大量の人骨が発見された。人骨の身元は不明だが、731部隊の犠牲者の可能性があるとして市民団体は政府調査を要求した

Wikipedia


満州国から現在までの繋がりをざっと見てきましたが。

「メディア」「武漢」「上海」「各種の病原体の研究・培養、ノミなど攻撃目標を感染させるための媒介手段の研究」「国立感染症研究所」「無罪放免になった医者たち」

あれ? つい最近どこかでよく見かけたキーワードが並んでいますね。
まさか……ね?

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