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山本周五郎の「季節のない街」〜落語世界の住人のように時空を超えて

黒澤明の映画「どですかでん」宮藤官九郎の同名のドラマシリーズの原作になった、山本周五郎の小説「季節のない街」とはどんな小説なのか。(青空文庫のテキストはこちら)(Audible版あり

そもそも、“季節がない“とは、どんな街なのであろうか。

日本には四季があり、その移ろいと共に、様々な楽しみが存在する。正月、ひな祭り、花見、端午の節句、夏祭り、お月見などなど。しかし、それらは生活に多少の余裕があればこそのイベントであり、毎日の生活に汲々とする人たちには無縁のものである。

そんな人たちが集まる“街“で、懸命に、そして優しさと狡猾さを同居させながら生き抜いていこうとする人、あるいはそこから脱出しようとする人、そして“街“に流れついてくる人々を描いた連作短編集が小説「季節のない街」である。クドカンの作品は、その“街“を仮設住宅に移し、原作にかなり忠実にドラマ化している。

“あとがき“で、山本周五郎は各編で描かれているエピソードは、<登場する人物・出来事・情景などは、すべて私が目で見、耳で聴き、実際に接触したものばかり>とする。つまり、これは一種のドキュメンタリーである。それを、作者は小説というフォーマットにし、普遍的に通じるものに仕立てたのだ。

本作は、1962年に書かれた。しかし、それは60年以上前に存在していた現実ではなく、今の我々の身近にある出来事であって、宮藤官九郎はそれを映像表現したのである。

と書くと、なんだか深刻な物語のように思うかもしれないが、本作は決してそうした読み物ではない。私は、この小説を読みながら落語に通じるものを感じた。落語に「長屋の花見」、上方では「貧乏長屋」という演目がある。“季節“のイベントとは無縁の貧乏長屋、大家さんが店子に声をかけ、我々も花見をすべきだと出かける話である。しかし、お酒はなく“お茶け“、卵焼きの代わりに同色のたくわん、かまぼこは大根といった塩梅である。

落語に出てくる長屋は、大抵貧乏長屋である。そこの住人は、懸命に生きているが、悲壮感はない。善人もいるが、悪人もいる。聴くものは、デフォルメされた現実世界を笑い、同時に世の中というものを理解する。

山本周五郎は、当然にして落語を聴いていただろうし、そうした落語的ドキュメンタリー表現の手法を使っていると思う。

実際、小説のテキストの中にも、近所に小言を言いまわる男について、<落語の小言幸兵衛はその男をモデルにしたのではないか、と思われるほどであった> と表現されている。

あるいは、生まれた家は広すぎて全部の部屋を見たことがないなどと、見え透いた“ほら“を吹く女性が登場する。これって、「宿屋の富」に出てくる自称金持ちではないかと思っていると、<――そんな落語

がありましたよね、屋敷の中をすっかり見てまわるには、弁当持ちの泊りがかりでなくちゃだめだっていう、あれよりもっと広いようなことを云うんですから>、と続く。

つまり、山本周五郎の技量は、根っこは凄まじい話を落語的なユーモアでくるみ、誰しもが読み進みやすい物語に仕立て上げながら、面白い話であるが故に、深く心に刺さるものに仕立て上げているのだ。

今も、“季節のない街“は世界中にあるのだ


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