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小説『ノルウェイの森』村上春樹 感想

村上春樹を読みたいな。ふとそう思って『ノルウェイの森』を買いました。僕も村上春樹を読みたいだなんて思うようになったんだなぁと、しみじみ思います。

さて、今回は人物ごとに分けて書いてから、全体としての感想を書いていきたいと思います。

※感想ですのでネタバレ配慮等はしておりません。


直子

本作のヒロインの内の1人。
選択肢の一つ、と僕は捉えました。

直子は死の象徴。多くの方がそう感じているようですが、僕も同感です。

彼女は性的な行為も、流れでワタナベと1度できただけ。
どんどん体から無駄な肉が落ちていくし、ついには自分も死んでしまう。

主人公、ワタナベは直子と交際するか、後述のヒロイン緑と交際するか。
一応、選択の余地があったのではないかと思っています。

緑がワタナベに好意を抱いているのは半ば明らかだったと思います。

緑にキスしたりしなければ、直子に渡す手紙の文面から伝わる印象も変わったのではないか、レイコさんから伝わるリアクションが変わったのではないか、ワタナベの行動が直子の死に関係したのではないかと僕は思ってしまいます。

そして主人公の行動の結果が人生を生きる代償として、ワタナベにのしかかる事になったのではないかと思います。

直子としては3人で居た時と同じく、ワタナベは外部とのコネクターでした。
そのワタナベが緑に引っ張られて外れてしまったのですから、孤独な直子は自然と生きて行くことができなくなったのだと思います。

現世との繋がりは無くなり、死者であるキズキとの繋がりしかない。
ならば死の世界へ向かうのも自然な成り行きなのかなと思います。

この自殺に対して嫌悪の感情が湧かない様な書き方が僕は好きです。
直子はただ自分自身について選んだだけだと思うのです。
良くもないし、悪くもない。僕はそう思います。

ワタナベは直子との繋がりを、不本意かもしれませんが結果的に断ち、緑と一緒に居ることを選択しました。
そして彼は生の世界に居続ける代償として、ノルウェイの森あるいは直子に、一生囚われ続けるのだと思います。

作中での直子の役割は、死んでワタナベに生きるための代償を追わせることだったのではないかと思います。

さて、直子はワタナベを愛していたのでしょうか?
冒頭では直子は自分を愛していなかったと、ワタナベの主観で書かれています。

こればかりは死人に口なしで分からない。
また直子がなぜ死んだのか。ワタナベの視点からすると遺書も無いので分かりません。
この辺りもリアリティーがあって良いと思いました。
あえて分からずじまいにすることで、直子はワタナベの心に残り続けるのだろうと思います。

ノルウェイの森を聴くとき、自分が深い森で迷っている様だと直子は言います。
また序盤ではワタナベに井戸に落ちる話をしています。

彼女の病名は明らかになっていないけれども、誰しもが彼女の様に突然井戸に落ちることがあるし、森で迷いうるのだと思いました。

彼女の死は特別なモノではなくて、自然で、一種ありふれたものなのかもしれません。

また確かにビートルズのノルウェイの森を聞くと、直子っぽいなと思わされます。
タイトルにピッタリのキャラクターです。

ノルウェイの森=直子=死=代償。
ワタナベの人生の一部を描いたこの本のタイトルにはぴったりだと思います。

ワタナベが本書で語るとのは直子についての事であり、死についてであり、代償であるのだと思います。


もう1人のヒロイン。生の象徴であり、もう1つの選択肢。

緑とワタナベは性的な話もするし、ご飯もよく食べる。
緑の性格は明るくて、前向き。

直子とは正反対の選択肢です。
緑とも性的な接触はあるのですが、繋がってはいません。

ワタナベとしてもそこは越えられない一線だったのでしょう。
この辺りが意外とワタナベの人間らしさかもしれません。後述する永沢なら一線を軽々超えられるのかもしれないです。

さてワタナベは分からないフリをしているだけで、緑の行為にも気づいているように思います。
ワタナベ自身も心中では緑を選んでいったと思います。

髪型の変化に気付かずワタナベが緑に怒られた時、ワタナベ視点で見ると自然消滅を狙えたはずです。

しかし緑は選ばれた。
ワタナベは生に魅力を感じる人間だったのかなと思います。結局のところ生者の世界で生きていたかった。それが彼の本心なのでしょう。

ほとんどの人がワタナベと同じ選択をすると思います。
しかし死の魅力に引きずられて死んでしまう人も居るのですから、ワタナベは生の世界が好きだったのでしょう。

さて、緑の方はなぜワタナベに惹かれたのか
彼女は苦労性です。父や母を看病してきた人、生と死の間に居るワタナベを、自分が引っ張り上げないと、と思ったのではないでしょうか。

その気持ちが恋愛感情として現れた。

私が居ないと彼はダメなの。
ワタナベは生と死のどちらかを選ばないといけない立場ですから、一般的なダメ男とは違うと思いますが、緑はワタナベを助けたかったのだと思います。

直子と緑は徹底して対照的に描かれています。
生の象徴である緑の姉は生きて結婚し、直子の姉は首を吊って死んでしまいます。
また、緑の父は死んでしまいますが、緑としては非常に前向きで死の世界に引っ張られる感じはありませんでした。

緑の父は緑の前向きさを演出するため、またワタナベの成長(人との関わり)を促進する事と、永沢との対象として登場したのかなと思います。

当然のことながら、緑は直子の対象として登場し、死の象徴である緑とは対照的な役割を担っていると思いました。

またワタナベと緑が火事を眺めながら歌うのは、ローマ皇帝ネロを彷彿とさせる描写で個人的にすごく好きでした。

インモラルな事をしたうえでキスまでするのですから、よほどのことが無い限り2人はカップルとして成立するでしょう。
ワタナベと緑が交際するための説得力を産みだしている描写だと思いました。


キズキ

なぜカタカナなのだろう。気付くと重ねているだろうか。と思いつつ読み進めましたが、僕には意図を解くことができませんでした。

自殺することも悟られないし、なぜ死んだのかも不明なままです。
このよく分からないけど、自分(ワタナベ)の生きている世界から消えてしまった。
という感じがリアルで好きです。

自分の能力・話術をひけらかす事はせずに、直子と愛し合い、1人で死んだ男。

直子と2人の世界を築いたのに、なぜ1人で死んだのか分からない。
大人になると直子とワタナベ以外の人間とも関わらざるをえなくなる、というのが嫌だったのでしょうか。

個人的には直子とキズキの関係は恋人よりも家族とかソウルメイトに近かったのかなと思います。
身体よりも精神で繋がっている印象を受けました。

だとすると、セックスが上手くできない事にギャップと矛盾を感じて苦しかったのかなとも想像します。
好き同志なのになぜ?と思ってしまったのかもしれません。
当然のことながら、恋人同士はセックスしなくてはならないと言う様なルールはありません。
なので2人は2人の関係のまま生きるという事もできたのかなとは思います。

可能性の話ですが、2人で2人の世界に閉じこもったまま、時間が過ぎるのをやり過ごすという事も可能なのではないかと思ってしまいました。

ただキズキはそれを選ばず、死の側へと旅立ってしまいました。

死の直前にワタナベと遊ぶ描写がある辺り、死は生の対照としてではなく、その一部として存在していると言う本書のテーマを体現した死に方だったのかなと思います。

実際に生きる我々も自殺した友人の心中は、遺言等からしか推し量る事はできません

本音は聞けずじまい。
そして友人の死を抱えながら生きて行くことになるのでしょうね。
この失うという事が、残されたものが生きるための代償として本書では書かれているのだと思います。

キズキはワタナベと直子を死の世界に誘惑する役割を持って登場したのかなと思います。

永沢

彼はワタナベの先輩として登場します。
彼は様々な人物と対比されるように書かれていたと思います。

まずはキズキ
キズキも永沢も同じように話術が巧みで人を納得させる才能がある。

キズキはこの力を身内にのみ発揮し、永沢は外部に対して発揮しました。
力を求められているから行使しただけと言う様な風なのが永沢です。

個人的には学生運動の時代ですから、アジテーターに祭り上げられたりしそうだななんて思いました。
もちろん外務省に努めることを目標とする彼がそんな事するワケ無いのですが。
やろうと思えばそれ位の事は出来てしまいそうな人物です。

どちらが良いかという話ではありませんが、能力を対外的に発揮したら永沢っぽく、身内にのみ使っていたらキズキっぽくなるのかもしれませんね。

次に緑の父。
永沢は人々に努力が足りないと言います。
しかしワタナベは緑の父親をイメージし、そんな事は無いと反論します。

永沢はそれは労働であって努力ではないと言います。
緑の父が死ぬと一層その死が侘しく感じられますね。
努力している風でしていたのは労働だと一蹴されているわけですから。

虚しい会話であると同時に、一理あるとも思いました。
どちらが良いとかではなくて、区分されているだけだと思います。
この区分が役に立つ人も居るでしょう。

そしてワタナベと永沢。
どちらも人に興味が無さそうに描かれますが、ワタナベは永沢の手前に居ます。
ワタナベをもっともっと先鋭化させたのが永沢であるように思いました。

永沢のように人に煩わされず、人生をゲーム的に捉えて、泳ぐように生きる事はワタナベにはできませんでした。

人が死ねばショックを受けるし、人の感情に対して何も思わないと言うようには生きられないのがワタナベです。

この2人に関しても良い悪いではなく区分だと思います。
ただ永沢は生きるために必要な代償を簡単に払える人間なのでしょう。

人が死んだり、他人と関わったり、そういう事にはある体で無関心だからこそ、人生が上手く運んでいるのだろうと思います。

ワタナベにはできない事です。
37になっても直子の事を思い出すのですから。

ワタナベは永沢の彼女に対しても可哀想だと思ったり、彼女が死んだときに感情を出したりする。
最終的には永沢から届いた手紙を破り捨てます。

ワタナベは永沢には成りませんでした。
ワタナベが先鋭化したその末路として永沢の様な人物が登場したのではないでしょうか。

ワタナベ

主人公。登場時は37歳。そこから18歳の時にさかのぼり、話が進行していきます。

率直に言って僕は彼が好きではありません。
なぜでしょう。
女の子の扱いが雑だからでしょうか。

特にメンタルが弱っている直子に対して手でさせるシーン。
この時すでに2人は情交した経験があるのですが、メンタルが明らかに弱り療養所に入った彼女に対して、手でさせると言うのはどうしても気持ち悪く感じました。

遠慮しようとは思わないのか。
それは直子の本心なのか。
自分の欲望を優先させ過ぎじゃないのか。

そう言った風に思ってしまったのです。
またラストの方では直子の服を着たレイコさんとも情交します。

このシーンが辛かった。
お互いに同意はあると思うですが、このシーンはレイコさんとセックスしているように見えて、レイコさんを死んだ直子に見立ててセックスしているのだと思います。

なんとも個人の意思を軽視したような感じがして嫌でした。
ワタナベは人に対して少しずつ深入りする様になって、永沢ほど冷酷ではなくなります。
成長しているとは思うのですが、最後まで僕はワタナベが好きにはなれませんでした。

もちろんこの本はワタナベを好きにさせるために描かれた本ではありません。
ですがワタナベについての感想としては嫌いだったの一言に尽きます。

彼は当然のことながら、語り部として、登場します。
死は人生の一部であること、生きるためには代償が必要な事を体現するために登場したのだと思います。

全体としての感想

100%の恋愛小説という事で大変売れたらしいですが、読んでみると詐欺じゃないかと思いました。

この本は確かに恋愛小説としても読めますが、人生小説だと思ったからです。

そんなジャンルは存在しないのですが、この本は人生について描かれています。
死は人生の一部であること。
生きるためには代償を支払わなければならない事。
両方とも人生に対する一意見でしょう。

それから学生運動の盛んな時代であり、その事にも触れていて、青春小説のような感じもあります。

恋愛小説だと思って買った人は売るなりインテリアにするなりで、読み切らずに終えてしまったのではないでしょうか。

さて、この小説では死が生の一部であることが示されています。
当たり前と言えば当たり前なのですが、ストーリーにすると説得力がありますね。

人はいつか死ぬよ。
と言われるより心に響く。

ただ著者は個人的な小説だとあとがきに記しています。
検索するとノルウェイの森 何が言いたい? 等と出てくるのですが、対外的なメッセージを含む作品では無いのかなと思いました。

人生について、こうだ! と書いてはあるのですが、読者に対して語り掛けているような感じは受けませんでした。
村上春樹が自分に言い聞かせるための小説なのかもしれません。

話は変わってしまうのですが、僕は先述したように、ワタナベが嫌いです。
その要因の1つに主人公に都合がいいと言うのがあります。

多くの女性が主人公の事を好いていて、主人公はそれについて「別に? 興味ないけどね」という態度を取ります。
「モテるのなんて当然だけどね」と。

さらに女性陣が主人公に対して理解があり過ぎるのです。

下ネタにも、他の女性とセックスることにも寛容であって、主人公と似た様に音楽や文学が好き。

加えて主人公の休日は理想とも言うべきものです。
ネジを緩めて音楽を聴いたり本を読んだり、勉強したり散歩したりして、酒を飲む。

この理想を本の主人公にやらせている。
自分の欲求を満たすための小説なのではないかと思ってしまい、あまり好きには成れませんでした。

この辺りが自分の為の小説という事なのでしょうが、主人公の在り方がライトノベルの主人公のようで好きには成れなかったのです。

そんな女性居ないだろう、と心の中で思ってしまうのか。
あるいは単純にモテる奴に対する嫉妬かもしれません。

僕はライトノベル、特に所謂なろう系とは相性が悪いのです。
だからこのように感じるのも自分の中では当然なのかもしれません。

世間のように村上春樹!村上春樹!と興奮して騒ぐことは、僕にはまだできないようです。
いつか騒ぐようになるかもしれないし、ならないかもしれない。
あくまで今は楽しめなかったと言う事です。

期待値が高すぎたのかもしれません。
ライトノベルが苦手なように、この本も苦手だったと言うだけなのでしょう。
しかしこの『ノルウェイの森』の読ませる文体、跳躍した比喩、引き込む構成は読んだ人のほとんど全員が称賛してやまない事でしょう。
僕も素晴らしいと思う。

ノーベル文学賞発表の度に騒ぐ狂信者のような人がいるというのも、頷ける話です。

好きな人は一生、好きでいられるなと思いました。
そう言う人が羨ましくもあります。
僕が村上春樹の深みに気付けていないだけかもしれませんから。

あまり好みでないことに気付けたという事も含めて、『ノルウェイの森』を読んでよかったなと思います。
長々と書いてしまいました。読んでくださった方、ありがとうございます。

余談ですが『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』は好きでしたし楽しめました。



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