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『わたしを離さないで』 – 日めくり文庫本【10月】

【10月11日】

第六章

 ともあれ、わたしがテープを人目にさらしたくなかった理由はタバコです。ジャケットを裏返してジュディとタバコを隠し、プラスチックケースを開けないと見えないようにしていました。ただ、あのテープを大切にしていたのは、タバコゆえではありませんし、歌手がジェディだったからでもありません。ジュディは当時のありふれた歌手の一人で、歌もバーで歌うようなものが多く、ヘールシャムの生徒が好んで聞く種類の曲ではありませんでした。このテープがわたしにとって特別のものだったのは、先頭から三曲目に「わたしを離さないで」があったからです。
 スローで、ミッドナイトで、アメリカン。「ネバーレットミーゴー……オー、ベイビー、ベイビー……わたしを離さないで……」このリフレーンが何度も繰り返されます。わたしは十一歳で、それまで音楽などあまり聞いたことがありませんでしたが、この曲にはなぜか惹かれました。いつでもすぐに聞けるように、必ずこの曲の頭までテープを巻き戻しておきました。
 いつでお、と言いましたが、実はいつでも聞けたわけではありません。販売会にウォークマンが並びはじめるのが、まだ数年先のことです。当時、ビリヤード室に大きなプレーヤーがありましたが、いつも人だかりがしていて、使えたためしがありません。美術室にもプレーヤーがありましたが、ここも騒々しくて音楽には適しません。やはり落ち着いて聞ける場所というと、寮しかありませんでした。
 その頃、わたしたちはもう別棟の六人部屋に移っていました。この部屋にはポータブルのカセットプレーヤーがあって、いつもラジエーターの上の棚に置いてありました。わたしはみなが留守のときを狙い、部屋に戻っては、繰り返しこの曲を聞きました。

——カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』(ハヤカワ epi 文庫,2008年)161 – 163ページ


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