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『競売ナンバー49の叫び』 – 日めくり文庫本【9月】

【9月16日】

「それがおれさ」とムーチョ——「そのとおり。だれだってそうなんだ」。彼は彼女を見つめた。ほかのひとならオーガズムの幻想に浸るところを彼は共鳴の幻想に浸っているのだろうか。その顔は、いま、つややかで、なごやかで、平和だ。彼女はこんな男を知らない。頭の中の暗いところから恐慌が上昇しはじめる。「いまはヘッドホンをつけると、いつだって」と彼は続けていた——「聞こえて来るものがほんとうによくわかるんだ。あの若い連中が『あの娘は君を愛してる』って歌うと、イヤー、そう、ほんと、あの娘は愛していて、あの娘っていうのは何人でもいい、世界中いたるところ、時間もいつでもいい、肌の色や、体の大きさや、年齢、恰好、死ぬまでの時間、そういうものが違っても、あの娘は愛するんだ。そうして『きみ』ってのはあらゆるひとなんだ。そうして、この娘じしんでもある。エディバ、人間の声ってのはね、とてつもない奇跡なんだ。彼の目から涙が溢れそうになり、ビールの色を映している。
「あなた」と彼女は言った。途方に暮れ、これをどうしてよいのかわからず、彼のことが心配だった。
 彼は小さな透明なプラスチックの瓶を向かい合っている二人のテーブルの上に置いた。彼女は瓶の中の錠剤を凝視して、ようやく事情が呑みこめた。「それ、LSD?」と彼女が言った。ムーチョはほほえみ返す。「どこで手に入れたの?」。訊かなくても、わかっている。
「ヒレリアスさ。計画を拡げて夫も加えることになったんだ」
「それなら聴いて」とエディバはつとめて事務的な口調で、「どれくらい前からなの、これを飲んでいるのは?」
 彼はほんとうに思い出せないと言う。
「でも、まだ中毒になっていない可能性だってあるわ」
「おまえ」と、けげんな顔でエディバを見ながら、「中毒なんかになりはしない。麻薬の常用者とは違うんだぜ。これを飲むのは、これがいいからさ。いろんなものが見えたり聞こえたりする、匂いだって、味だって、いままでに経験したことのないようなものなんだ。世界はそんなに豊潤なんだから。果てしがないのさ。ベイビー。アンテナになっちゃうんだ、自分のパターンを送り出すのさ、毎晩百万人もの人間に。そうすると、その百万人が自分の人生にもなるんだ」。彼はいま、忍耐づよい、母親的な表情を浮かべている。エディバは彼の顔に一発くらわせたくなった。「歌にしても、歌が何かを表現しているっていうだけのことじゃない、歌が何かである[#「何かである」に傍点]んだ、その純粋な音だけでね。いままでにないことさ。それでおれの夢も変わった」

「5」より

——トマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』(ちくま文庫,2010年)202 – 204ページ


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