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その昔、ラオスには何かがありました〜松本清張『象の白い脚』(1969・1970)

 小説や文学作品を、無私の心境で読むのは難しい。誰しも、意識するにせよ、しないにせよ、ある一つの観点から作品を賞味しているのである。そのような視点は、「嗜好」と言ってもよいかもしれないし、今や死語になりつつある「イデオロギー」と呼んでも差し支えないと思う。

 松本清張(以下「清張」)の著作は、見渡す限りでは、大半が賞味期限切れになっている。しかしながら、一定数の読者が、それぞれの寄って立つポイントに基づいて、本棚や古書店、あるいは図書館から古びた、忘れられた彼の本を引っ張り出し、再読に勤しんでいると想像する。当方もその一人。

 この7月、未読だった海外モノの一つ『象の白い脚』(以下『象』)を読んだ。この作品は、1969年と1970年に『別冊 文藝春秋』に掲載された小説だが、当方が手にしたのは、1975年の『光文社 KAPPA NOVELS』版。堀文子画伯の高品位なカットがうれしい新書判である。

 自分の場合、読み方や好みは意識的ではなく、読み始めは概ね気分次第。本を選ぶわけだから、先行する関心はもちろんある。しかし、「読む観点」は興味本位の曖昧模糊としたもの。観点は、潜在的には存在していたらしく、読後に「こんなことに関心を持っていたんだ」という感じで姿を現し、それを言葉に表せるようになるといったことも多い。「まさに、それが読書なのだ」と言われてしまったら、それまでなのだが。

 とりあえず、今回の読書に至るまでの流れを追ってみる。先月6月、安彦良和氏の劇画『虹色のトロツキー』(1990〜1996・潮出版社、読んだのは2000年発行の中公文庫版)全8巻を読み、その中に、陸軍大佐・辻政信が登場。同氏は、戦後1961年、ラオスで行方不明になった人物であることから、同国を舞台にした『象』を思い出し、読む気になったという次第だ。ちなみに、安彦作品は、10年ほど前に一度読み、今回2度目。

 なお、清張氏『象』と辻氏の逃亡記『潜行三千里』(1950、毎日新聞社)に関連性はない。

 実は、ラオスについては、若い頃は全くといっていいほど関心がなかった。もちろん、ヴェトナム戦争絡み程度のことは知っていたが、国のイメージはつかめていなかった。10年ほど前、周辺国を旅行した頃から、漠然としたミステリアスな国という印象を持った。ラオス産ビールをカンボジアで飲み、結構おいしかったので割と豊かな国なのかな、と思ったりもした。最近見たNHKの『世界ふれあい街歩き』の再放送でも、首都ビエンチャンの風景から仏教国ということはわかるものの、捉えどころのない所というイメージは変わらなかった。

 『象』は、力作ながら、推理小説としては成功しているとは言い難い。謎解きが終わりの方に集中しており(こういう偏りは、清張の他作品にもいくつか見られる)、しかも説明が短い。全体をサッと一読しただけでは、構成や文章量の配分にアンバランスな印象が残るのではないか。

 WEBなどでは、本作は「ベトナム戦争下の阿片密売を暴いた」云々の解説も見受けるが、一面的な指摘である。ルポではないとはいうものの、取材を重ねたらしく、事実に即したところは多いと思われる。しかし、義憤にかられて悪事を暴くといった姿勢は強くない。冷静な叙述が続くのである。

 ラオスにしてもインドシナ半島の国だから、ヴェトナムと無関係ではない。しかし、本作はあくまでもラオス内戦が背景のストーリーである。また、阿片は作品の要素にはなっているが、中心テーマとは言えない。むしろ、この作家の従来のスタンスのとおり、米国の政治介入や大戦中の日本によるビルマ(現・ミャンマー)占領の残影の方がウエイトが大きい。

 それにも増して、清張が最も描き出したかったのは、未知の国の「雰囲気」だったと思う。例えば、主人公がホテルの一室で横たわるシーン。

「そのままベッドに仰向きになった。白い天井に蚊が三十匹ぐらいとまっている。うす暗い隅には蝿が塊になってひそんでいる。(中略)壁を匍うゲッコウ(トカゲの一種)はワニの子のように大きいが、蝿は日本のと違わない。鈍いクーラーの音と、例によって河原から伝わってくる砂利採りのクレーンの単調な響きとに脳が揺られて、いつの間にか睡った。」(光文社KAPPA NOVELS版、121頁)

 この小説が魅力的なのは、リアリティを高める様々な構成要素が散りばめられているところである。上記のホテルの部屋もそうであるが、例えば、サムロ(三輪車タクシー)、安っぽいバー、怪しげなキャバレー、売春の実態、精霊信仰、少数民族、言語の多様性、隣国とのデリケートな関係など。それらのトピック群が、途上国特有の雰囲気を醸し出し、病める国の全体像を浮かび上がらせている。

 文士・清張は、1969年のラオスを記録したかったのだ。彼が健筆を奮ったのは、退屈で退廃的な、60年代終わりの東南アジアの一国の細密画においてである。上記の多様な構成要素を、内外の不安定要因、軍や政府の腐敗、ジャーナリストなど外国人の生態、そして阿片売買などを骨格にして、有機的に統合することに成功している。

 ただ、このように精巧な作りであると書くと、作品の客観性が高いという誤解を招きかねない。

 描写が正確に見えるので、リアリティは高いのだが、照射していない部分があるのが気になる。

 政情については、現政府の理不尽を描くことに力点がおかれ、対抗する左派勢力パテト・ラオについてのネガティブな記述が比較的薄い。これは、『日本の黒い霧』などをはじめとして、左翼寄りとみなされがちな清張らしい偏りである。

 読む側にバイアスがあるのと同様、作者側にも偏心があるから、記述にアンバランスが生じる。

 記述量の不均衡は、小説の場合まだわかりやすいものの、一見客観的な報道記事やルポルタージュになると、悪質ともいうべきものも見られる。清張は、本作品で戦争報道のいい加減さについても触れているが、皮肉なことに、作家自身の意識的な省略が、透けて見えてしまっている。

 報道しない党派性、虚偽報道の罪。ジャーナリズムだけでなく、昨今は、真理を追求するべきアカデミズムの世界においてでさえ、アクチュアルな問題を避ける人々が、多くなっていると感じるのは私だけであろうか。

 一介の市井人は、「自分の目」を信じるしかないのだ。

 省略部分があるにせよ、描写そのものを見ると、本作品の取材が相当綿密であったことがうかがわれる。それは、物書きの姿勢として評価されるべきである。しかし、良心的とはいえ、今読むと、筆致には旅行者の「よそ者」感がついてまわっている。例えば、主人公は冒頭から最高級ホテルにチェックイン。途中、グレードが下のホテルに移りはするが、そこも外国人ジャーナリストの巣。また、部外者的視点を緩和するためか、企業派遣の日本人駐在員の苦労の生活ぶりも描かれるものの、彼らに接する主人公はあくまで日本からの「お客様」である。このように、はからずも主人公の在留邦人との交流においてでさえ、当事者同士の距離感が読む側に伝わってしまうのである。これは、当時の海外を題材にした小説の限界と言えないこともない。

 グローバル化の渦中にある現代の若者が『象』を読んだら、どのような感想を持つであろうか。今日では、10年、20年と、途上国で生活し、そこで活動する人々も多い。比較の問題であろうが、清張の取材よりも、もっと深く内情に精通している者も多いはずだ。

 当方、近年発展途上国で2年間ほど過ごしたことがある。もちろん、地域も違うので、単純な比較はできない。『象』を読む限り、当方の駐在国の方が、50年前の当時のラオスよりも生活レベル、治安などにおいて、格段に良好だったことも疑いえない。今日、ラオスを含めて、途上国の様相が大きく変わったことは周知の事実である。

 しかし、『象』が描き出した途上国が持つ様々な要素、独特の雰囲気は、当方が過ごした国にも共通するところがあった。また、実際に訪れてみないと断定はできないので全くの想像になってしまうが、清張が目撃した場末感が横溢するラオスは、今も昔の姿を止めているところが多いのではないか。さらに、日本人が(日本人だけでもないが)、異国において、同邦人の閉じ気味のコミュニティを作る傾向が見られることも、今日さほど変わっていないのではないか。

 途上国に限らず、あらゆる国には、ガイドブックなどには見られない、ある種「闇」の部分がある。「お客様」だったとはいえ、半世紀も前に、清張が、短時間で未知の国・ラオスに肉薄していることは特筆に値する。

 ここまで書いてきて、当方、自分の読書傾向が、政治モノ、戦争モノ、犯罪モノに偏っていることに今更のように気づかされた。これでも、中高時代はロマンチックな恋愛小説が好きだったのである。大学時代は、小説の作り物感に飽きがきて、文学作品の類は多読していないが、それでも清張は読んでいた。その後も読み続けているのは、リアリティに共鳴しているからであろう。そのリアリズムは、個々の人間が歴史に翻弄されるという冷厳な現実に由来する。戦争があり、闘争があり、殺し合いがある。そういった凄惨な場面では、英雄、革命家、芸術家もキーパーソンであることには違いない。しかし、大きな流れを生み出し、また、それに抗するには孤軍奮闘は非力である。集団の力に依るしかない。清張作品は、いつも当方にこのように語りかけてくれる。

 清張作品には、確かに偏りがある。それはそれで仕方のないことだ。さらに言えば、偏りがあるから面白いとも言えるのだ。

 読む側が、自らの偏心を力の源泉として、対峙する作品との間にバランスを保つ。偏っているかもしれないが、「自分の目」によって執筆者の偏りをただし、全体として確かなものをつかめれば、読者冥利に尽きる。

 昨今の自分のリーディング・ライフは、結果として偏心を自覚しながら、著者との間で相互作用を繰り返して満足を得るといった様子なのである。

 

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