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おばあちゃんに会いたい。

96歳の曽祖母は、三重でひとり暮らしをしている。

食料や生活必需品の買い出し、掃除やお風呂の介助などのために、週に3回、ケアマネさんが家へ来てくださる。
相談や問題があった際に連絡をしてくださるケアマネさんから、突然、母のスマホに電話があった。

ひとり暮らしの曽祖母には、何かあった時に誰かがそばにおらず、すぐに駆けつけられる人がいない。

わたしは覚悟をした。その日がいつか来てしまうとわかっているから。

朝の7時半。朝食を食べていたわたしの手は震えていた。
同じく食事をしていた父も、黙って、静かに母の電話の声を聴き、言葉の節々から、状況を掴もうとしていた。テレビの音はどんどん遠くなった。

電話が終わると、母は、「ハルコさんが亡くなったみたい」と言った。
「ハルコさん」は、曽祖母の8つ年下の妹である。私が親族の葬式などで何度もお会いしたハルコさんは、曽祖母にとって、残された最後の、歳の近い家族であった。

曽祖母は旦那さんを戦後に亡くし、祖父と祖母は今から7年前に亡くなり、わたしの母は、結婚して東京に出ているので、ひとり暮らしになってしまった。
7年前に娘を亡くしたときも、曽祖母は涙ひとつ流さず、こころが強かった。母も、わたしも、曽祖母が泣いている姿を見たことがない。
それでも、ハルコさんが亡くなったことで、気を落としてしまうだろう、ということが心配になる。

コロナ禍で、曽祖母とはもう1年半会っていない。
母とわたしと妹の3人で、毎年夏と正月に帰省し、年に2回は会っていた。滞在するのは2〜3泊ほどで、誘ってもなかなか外出に前向きでないため、どこかに出かけるというわけでもないが、朝昼晩のごはんを一緒に食べる大切な時間だった。

会うたびに、わたしと妹に対し、「あんたら、きょうだいで仲良くね。それだけが願いやわ」と曽祖母は言う。幼い頃から兄妹で協力し、親や家族を支えていたそうだ。
曽祖母の言葉が懐かしい。口癖である、「なんだかんだゆうても・・」という前置きや、耳が遠くて聞き取れない時の、「なんて〜?」という聞き返し。
ちなみに、大事でなさそうな話だと察した時は、聞こえなくても適当に相槌だけ打っているのが可愛らしい。

曽祖母は、祖父と祖母との3人で暮らしていた。祖父は短気で気性が荒く、曽祖母との仲は険悪だったようだ。
わたしが幼い頃、曽祖母の部屋に遊びに行くといろんなお菓子をもらえた。おせんべいや、和三盆や、抹茶のゼリー。
そして、昔の話を聞かせてくれた。美しい顔立ちの旦那さんや、定年まで勤めたお仕事のこと、娘が陸上の県大会で銀メダルをもらったこと。それから、包丁のこと。
当時三重の家にあった包丁は、どれも先が鋭利でない、刃が四角い形の包丁であった。それを選んだ理由は、カッとなった祖父に包丁で殺されないようにするためだ、と笑いながら言っていた。
幼い頃は冗談だと思って聞いていたが、今振り返ると案外冗談でなかったのかもしれないと思う。わたしたちがいない時間、1年のほとんどの時間に、あの三重の家にあった暗い空気を、わたしは想像することしかできない。

ひとりになって、外出することなく、特別趣味を持たない曽祖母は、今日をどんな気持ちで過ごしているだろうか。耳が遠いため、電話でもほとんど話が通じず、スマホもネットも使えず、会えないとコミュニケーションが取れない。

せめて、大切に思う気持ちを伝えたい。
母の日には、フルーツを贈った。
会えるまで、また贈り物をしようと思う。

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