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主体としての私、ダルマとしての私





おはようございます。風のつよいあさです。さむいので、久しぶりに暖房をつけています。あたたかいですね、王侯貴族のきもちでいます。さて、きょうは、きょうも、訳の分からぬ話をして参ります。こんかいも、仏教というか、お釈迦様のはなしになるのですが、まあきいてください。お釈迦様はなくなられるまえに「自灯明 法灯明」とおっしゃったとされています。まあ、自分をたのみ、法にてらしあわせて生きなさい、ということとされていますが、これについてつらつらと考えると、人間「私(主体としての私)」と「法(ダルマとしての私)」というのがあるなと。





そして、主体としての私は、日々苦しみを抱いて生きているわけです。まあ、楽しんだりもしますがね、かなしんだり、憂いたり。でもその多くは「的外れ」な訳です。実に、いろいろなひとが、いろいろなことを勝手に言っています。私もそうですね、口を開けば、まあ、ろくでもないことを話している。しかしながら、人間というものは一方で「法」というものに照らし合わせて生きる。そこがあって、ようやく、照準というものがあってくる訳です。それをわたしは「センタリング」といってはいるのですが、まあ、これをあえて、ダルマとしての私、といってみます。まあ、私、でありながら、私を超えた私というものです。





主体としての私は言葉を持ちますが、ダルマとしての私はことばを持ちません。ですから、主体としての私はそれを「解釈し」「理解しよう」という風にはなるのですが、それがまあ、禅でいう「不立文字」というものなのかもしれませんね。主体のみの私が開発されていて、ダルマとしての私に対する気づきが十分でないと、ひとは崩れていってしまいます。ですから、お釈迦様は「自灯明 法灯明」とおっしゃったのでしょう。


今日の一冊です。

このあたりも、味わってみてはいかがでしょう。






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