ほのぼの

会社員をしています。 仏教、心理学、あと、短歌、占いもします。 ここでは、のんびりと …

ほのぼの

会社員をしています。 仏教、心理学、あと、短歌、占いもします。 ここでは、のんびりと 日々の思いを綴っていきます。

最近の記事

こころとか 体について

おはようございます。 おもうこと。心では私自身を護れない、制御不能なとき からだはまさに「身をもって制する」のだということ なぜでしょうか。私はそれは からだは祖先から通ずる、生きた証だから ではなかろうかとも。 それにくらべた自我というものは この一代かぎりなのかと では、この護らんとする、私自身というものは 何なのだろうとなると だんだん禅問答のようです。 それは一つの熱源のようなもの。 命というと、なあんだと思うかもしれません が、それをいかに捉えているか 自我で

    • さとり か どうかは わからねど

      こんばんは ようやく仕事も、見通しをつけて 秋の夜長をあじわえるように。 改めて、ひととして大切なことを 思い出し ああ、外にばかり、目が向いていた。 自分がどこにいるのか 誰と付き合うのか、どう、どう。 そうではないと。自分の内面を 充たしてあれば、何処に居ても だれと知り合って、どのように 関わっても いい方向にいくという、こと。 これがさとりか、どうかは わからないけれど 1日24時間、あたたかい心 これを保ち続けること。 これほど簡単なようでいて これほどの難事

      • sadness

        いろいろと、忙しない日々。 ふと、エアポケットのような悲しみに。 ふと。エアポケットのような悲しみに。 いまはそういう、流れなのかも。

        • 人間なれば

          おはようございます。 前回はずいぶんと、な、ことを書いた。 と、おもうけれども。 あえていえば、そこに 愛 がなかった。 また、感謝というものが。 世の酷薄をうれえれば そこに住む、ひとりひとりの顔を 忘れてしまう。 人の心を慮り、気を揉んでいる。 それが苦しみになるときもある。 が やはり人は人によって 救われる のではなかろうか、と。 どのようなひとにも 尊厳はある そして それは実際に とてもデリケートで やわらかい もので出来ている 荒く握れば つぶれてしまう。

        こころとか 体について

          ひとつの見解に

          こんばんは、ふと、うかないきもちになり つらつら考えてました。 ひとの体の細胞は刻一刻 生まれては滅している そしてその、総体としては生まれても滅しても いない(不生不滅) あえていえば、ひとはみな 生まれながら滅している ひとはみな、ゾンビだと これが無常、恒(つね)なるものはない これは真実ではなく、事実だと ひとつの見解に至ったようだ だから、ひとの永く生きるためには 死にたての命、鮮度の高いものを 食べることかと。 ヴィーガンでも、肉食でも そこは、かわらず

          ひとつの見解に

          七年(短歌作品)

            七年         今井聡 七年で吾が牡羊の角とれて蝸牛の角に換はりゆきけり 秋の日のイヤフォンで聴くハワイアン親しげな楽(がく)は身にしみゆけり 痩せしのちやうやくにして己(おの)が身に自信つきたることをおぼゆる 吉井勇『人間経』を繰りながら書き写したりしののめどきを

          七年(短歌作品)

          水のながれに

          おはようございます。ゆっくり気づいて ゆっくりと咀嚼する。 少しずつ、前を向いて。 法という文字、これは さんずい、に去ると書く。 これはものごとは何一つ、とどまる ことを知らず。流れ去っていく 水のように。無常を示している のだそうです ひとが意志をもつこと これを初心、ないし初志といい 大変いいものではありますが それですべてが決まる というよりは それも含めて、ひとつの 流れのなかに、我々は 居るのではないだろうか。 最近とみに思います 人は 生きているのではなく

          水のながれに

          やわらかく

          詩文にこめた。きもちについて 私というものも、又、一人の他者である。 このことに気づくことは 案外少ない 自分と向き合っている ということ、対象とし得る私 それは発する私 というより、受ける私です。 その私というもの、これも 又無数の他者とかかわりあって 生きてる。ゆえに わたしはわたしとして 他者の一部、この世界の一部 であるという そこが沁みとおると この世界が一つの明るく かがやく珠ということが みえてくる。 そこにおいて、主体性なるものは 二重、三重に 厚みを帯び

          やわらかく

          尽十方世界是一箇明珠(詩文)

          尽十方世界是一箇明珠         今井聡 我の心の内なるは 是れ内ならず外ならず 水火風土のいずれをも しのぎておりぬ好世界 月表すべて光なら 月裏もすべて光なり 表は表我ならず 裏は裏とて汝ならず 光の珠を織りなせば いよよ輝く好世界 ひとりの人がふたりなら ふたりの人はひとりだと ふたり語れる我のうち ふたり語りて我の外 円かにありて方ありて 語り尽くせぬ好世界 愛しといわば近すぎて 寂しといわば遠からむ 影なき影をかなしめば ひとりおるよりひとりだと 半身の

          尽十方世界是一箇明珠(詩文)

          青柳通信 3(短歌作品)

          金沢のよき菓もらひてねもごろな文をよみたり歌の縁と 今井聡 この国のみじかき秋をほがらかにわれこそゐたれ巡れる道に 交響曲(シンフオニー)第四番は落ちし實のいろとおぼほゆ老いしブラームス

          青柳通信 3(短歌作品)

          辿り着くことの無き 為に

          こんばんは。秋の夜長 ようやく涼しくなりましたね。こういう 時はライブを聴くにかぎる。 ローリングストーンズのブエノスアイレスライブの 盤を聴いてます。 ミックもキースも元気! そして、極たまにですが、開く クリシュナムルティの最後の講話を読んで しびれました、 「私が指摘してよろしければ、私たちは、何が 正確なのか正確でないのかについて、 議論しているのではありません(以下略)」 私はここで、人の思考というか 営みを思うのです。生というものは実に 迂回を常としています。

          辿り着くことの無き 為に

          暗誦 を する

          おはようございます。 きょうは有休です。しみじみと、伸びをする そういえば斎藤茂吉に次の歌がある 時のまのありのままなる楽しみか畳のうへにわれは背のびす 斎藤茂吉 昭和六年(歌集『石泉』所収) 休日の空いた時間は、本を読む。 短歌については、書写することが多い。 そして、書写した歌を ひまをみては、暗誦する。 これが効く。非常に効く。 いまは茂吉『白き山』の歌を 暗誦している、思いつくままに 以下載せると 蔵王より離りてくれば平らけき國の最中に雪の降る見ゆ 斎藤茂

          暗誦 を する

          からだを ほぐしていく

          おはようございます。 部屋を冷やして寝ていたりすると 朝、体がコチコチになって目覚める。 そういうときには、ゆっくり。 まずは水を飲む。適量、どのくらいかな。 結構飲む。夏の朝起きて、頭が痛むひとは 軽く脱水していることが多いのかも。 水飲むといいよ、そういう時は。 そして、起き抜けに軽いヨガをする。 軽いので殆ど、ストレッチと変わらないけれど。 猫のポーズとかチャイルドポーズくらい。 あとは、肩甲骨周りの動きをよくして。 腰も回して、首もほぐして。 私はごく簡単なこの

          からだを ほぐしていく

          青柳通信 2(短歌作品)

          さりさりと梨くふこともひとりなればすくなくなりて夜は寝ねなむ 今井聡 ありし日の君のごとくに泣くひとをのぼりの坂の途上に見をり この朝明ウディ・アレンの映画などみてゐてダイアン・ウィーストを推す

          青柳通信 2(短歌作品)

          しっかり する

          こんな深夜になんとなく 起きていると、ふと 頭の回転がシャープになった ような気になる。こともある この十年 くらいで、随分と自分は しっかりしてきたのではなかろうか。 などと、振り返るまでもなく 思う。 そうなのだ、実際そうなのだ。 かのフロイトの言葉で 好きなものに 「人生の目的とは 働くこと と 愛すること」 というのがあって。 この両者は互いにたがいを 補いあうのではなかろうかと。 そこはユングっぽい考え だけど、そう思う。 働いて己をこの世界に 位置づける。そ

          しっかり する

          走りながら かんがえる

          おはようございます。 とりあえず、毎日があることが なんとも幸せで 働く仕事があることが 幸せだ。 大切なことを後回しにしている そこのところはずっと。 週末になったら考えよう そう思って 実際のところは、どうか。 あとまわし こういうの、典型的な 勤め人日常なんだろうなと 思うのは、いささか 逃げを打ったようで いやなんだけど、しょうがない。 たまには詩でも読もう と 手に取るのは、この本 この年齢になって、なおさら こういった、何気ない。でも 実際には何気ない、わ

          走りながら かんがえる