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人生は苦痛に満ちたもので、我々の期待を裏切る(ウエルベックと岡村ちゃん)

ミシェル・ウエルベックという作家が好きだ。

彼の小説で目立っている主な特徴は、人を食ったようなストーリー展開と折々に挿入される女性蔑視と人種差別丸出しの文章(意図的とはいえ度を越している)、物悲しいセックスシーンの3点セットで、PTAの人が読んだら怒りすぎて泣き出すかもしれない。こんな作風を「好きだ」ということを大々的に公表しづらい気もするが、本国フランスではベストセラー作家だし、私は大人だし、とにかく彼の小説が好きだ。


上記の特徴は非常に表面的なもので、本質的なミシェル・ウエルベックの作風については、素粒子の訳者あとがきに以下のように書かれている。

苦悩と絶望を基調とする世界観の上に立って、人間の営みに呵責なき批判を加え、同時代に呪詛を浴びせ、しかもその怨念と痛みに満ちた言葉を通して、ある詩的体験を実現する。それがミシェル・ウエルベックにとっての文学的創造の根幹をなしている。

その通りだと思う。彼の小説の主人公たちは幸福へたどり着けない。一瞬の夢のような時を経て、絶望へたどり着いてしまう。例えば、最新作の「セロトニン」では、物語の終盤に主人公は精神科医に「私にはあなたが悲しみに殺されかけているように見える」と言われる。

主人公たちが求める幸福は「恋人」に愛され、その時が続くことだろう。彼らは他者に愛されるという、単純なように見えて現代社会では得難い幸福を探している。

現代社会では、自由奔放な誘惑と喜びを「解放」として受け入れた代償として、性愛・愛情といった部分にも資本主義的な強者総取りの傾向(いわゆる、アルファメールとモテない男、という構図)が強くなり、女性からの視線を集められない方の男性は「誰にも愛されない」と惨めさを募らす。

そらに、もし分かり合える誰かを見つけたとしても、自分の夢のために移動も厭わない変化の激しいこの社会で、「末長く二人の人間の人生が交わり続ける」というのはどれだけ運のいいことか。


こんなことを書くと、「自分が幸福になれないのを他者のせいにするな」とか言われそうではあるが、誰かの愛情を求めることがそんなに悪いだろうか?
ミシェル・ウエルベックの煽り体質が存分に発揮されているレイシストでミソジニストな地の文に「お前みたいな惨めな男だからモテないんだ」とか思いたくなる気持ちもわかるが、それこそ強者総取りである現実のリフレクションであり、ミシェル・ウエルベックの狙うところだと思われる。

そうやって切り捨てられて、彼らの惨めさは嫌でも増して行く。ただ、もし「だからモテないんだ」と切り捨てなかったとしても、性愛の難しいところはボランティアでセックスしてくれる相手というのは存在しないということだ。


もう一人、岡村靖幸というアーティストの話を。

彼の音楽は、トリッキーなダンスと外で聞いていたら吹き出したくなるような妄想満載の歌詞、ファンクっぽさを岡村靖幸色に染めたカオティックな音とリズムで構成されていて、一度聞くと病みつきになってしまう(と岡村ちゃんのファンの私は思っているが、ミシェル・ウエルベック同様に賛否両論だと思う)。

取り急ぎ、セックスに振り切っている「いじわる」と切なさに胸をかき乱される「Out of Blue」の2曲を聞くと、このアーティストの根幹にある「セックスと愛の切り離せなさ」みたいなものを感じられると思う。

ちなみに、ライブ映像の方だが、初めて見た時、曲のかっこよさとステージにベッドを持ち込むという斬新なライブパフォーマンス(そして、2000年くらいはいろいろあって驚くくらい声が出ていない)のせいで頭がクラクラしたので、初見の方はちょっと心してほしい。

岡村靖幸は日本で唯一「性愛」の切実さを歌っている、と何処かの論評に書いてあったのをみたけれど、全くその通りだと思う。

日本のポップミュージックというのはセックスを匂わせレベルに落とすことで、エロティシズムや変態性として曲の中に取り込んできたように思う。また、「愛されないこと」の切実さに触れることはあっても、それはセックスとは切り離された描写だったり、どこかセックスを「エロいこととして面白がる」という側面がある(サザンとか)気がするのだが、岡村靖幸はストレートに性的なことを歌っている。

もしあなたがCardi Bをたくさん聞くような洋楽リスナーであれば、この程度の描写がなんだ……と思うかもしれないけれど、正直、日本語圏で岡村靖幸ほど直接的な描写はないのでは……と思う。

岡村靖幸の音楽の不思議なところは、エンターテイメント的にセックスの描写を入れつつ、セックスを通して「愛されること」を願っているのが伝わってくるところだ。そして、その先にある「幸福」の一つの形を求めていること。


ミシェル・ウエルベックの小説と岡村靖幸の歌の根底に通じている、セックスと愛情の切り離せなさは、かなり近いものがあるのではないかと思う。

その「幸福」は誰もがいつか辿り着く場所のように世間では語られているのに、その実、そこへ辿り着く道はとても細い。いや、道はそもそも存在しないかもしれない。ここに切実な苦悩があり、その果てに絶望がある。


最後まで読んでくれてありがとう。