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【読書記録】         南条あや『卒業式まで死にません』

わたしがうつになったと言ったとき、中学時代の友人がそっと差し出してくれた一冊。なかなか読めなかったのだけれど、勇気を出して読んでみた。

『アンネの日記』を読んでいるようだった。

この日記を書いた人はもうこの世界にはいなくて、日記には必ず終わりが来る。読み進めるのが怖かった。

日記の最後も、いつもとなんら変わらないあやさんの文章がある。

これもアンネと同じだと思った。

明日は突然やってこないのだ。

昨日、今日とあたりまえに来た明日が、明日は来ない。

そんなこと、今までのわたしなら本当の意味で理解することはできなかったのだろうと思うけれど、今のわたしにはわかるような気がする。

毎晩、「明日が来ないでほしい」と思いながら眠りにつく。それでも明日はやってくる。けれど、それを断ち切ることもできる。その選択は取らないと思っているけれど、常にその選択肢はわたしの手の内にある。

だから、明日が来ないとはどういうことなのか、わたしは理解し始めている。

あやさんは文章を書くのがうまくて、頭がいい。

わたしとおんなじだと思った。

それはかい被っているわけではなくて、人よりもほんの少し感受性が豊かで、観察力が鋭いのだ。だから、心の器からポロポロといろんなものがこぼれ落ちてしまう。

そしてそれを懸命に言葉にすることで、いろんなものを繋ぎ止めている。感受性に溢れているのだけれど、自分や世界を冷静に見ている。

言葉にしなければ、溢れて息ができなくなってしまいそうだ。

あやさんも、そうやって息をしていたのではないだろうか。

あやさんは、最後には自殺してしまう。

これを読んだ人の中には、なぜ助けられなかったのかと悔やむ人、家庭や学校が悪かったのだと怒りを感じる人があるかもしれない。

けれど、多分そうではないのだ。うまく言葉にできないけれど、そうではない。人が自分で命を断つっていうのは、そんなことじゃないんだと叫びたい気持ちになる。

多分、本当に死んでしまえる人は、助けられないんだと思う。

それは諦めではなくて、花弁が落ちるように、命が溢れるのだ。

わたしはそんなふうに死にたい。

わたしは、わたしの辛さが本物だと証明するために死にたいと思う。

あやさんの「死にたい」の裏には一体どんな気持ちがあったのだろう。

以前カウンセラーさんに、「ほのさんは自分の命を軽く見ているような気がします。」と言われたことがある。

わたしは、死にたいと言っている人間の命に、重いも軽いもないと思った。

むしろ重すぎるのだ。命が重すぎるから、抱え切れなくなってしまうのだ。

わたしが死んだとしたら、そうだな、「どうして助けられなかったのだろう」とわたしのために一度だけ泣いてほしい。両親以外の人に。


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