見出し画像

カズオ・イシグロの『浮世の画家』を読んで考えた、私の誤読。

カズオ・イシグロさんの『浮世の画家』を読み終わった話をします。
(ネタバレあります)


翻訳によって加わる日本っぽさ

この作品の舞台は終戦後の日本で、明治生まれと思しき老画家・小野益次の語りによって展開していきます。

なんですけど、この老画家が明治男なだけあって、家族に対してものすごく大柄なんですよね、言動が。
読みながら、小野の言動にイライラハラハラして、100ページ手前くらいでちょっと挫折しかけました。
というくらい家父長制が駄々洩れだったので、カズオ・イシグロ氏って時代背景とか綿密に調べ上げて書いたんだなあ……と思っていたら。

なんだ。翻訳家の飛田茂雄氏が、小野の年代の男の口調を意識して、「カズオ・イシグロが日本語で書くとしたら……」という想像のもとに、小野を明治男に翻訳してたんですね。すごいぞ、翻訳家って!

当然っちゃ当然ですが、原文は英語なわけで、英文の中に明治男はいないわけですよ。
そこを、翻訳というフィルターを通して、明治男を取り出すわけですからね。

飛田氏は1927年生まれで小野の娘や婿たちの世代に近く、だから家父長制の強い小野を訳し切ることができたのかもしれません。
仮に小野が現代的な老人として日本語化されたとすれば、嫌悪感は半減していたかもしれませんが、ちりちりとくすぶるような違和感はずっと残っていたと思うので、そうなると作品の魅力を損なうことは疑いなく。

海外文学が持つ、作者と翻訳家の共同作業的な部分を、改めて感じさせられました。

プロパガンダに対する意識

本作における老画家・小野の苦悩とは何なのか。
作品内でもはっきりと語られていませんので、訳者のあとがきでも解説でも、突っ込んで触れられてはいません。

ただ、全体を読むと見えてくるものがあって、それは戦前・戦中派である小野の意識と、戦後派である若者の民主主義観とのギャップです。

前作『遠い山なみの光』でも、イシグロ氏はそのギャップを描いていましたが、戦後の日本を描くときにそれって避けては通れないものじゃないかと思うんですね。
それまでの価値観の真逆を、国から推奨されるわけですから。

ただ実際の市井では、軋轢を嫌がる国民性ゆえに、みんな口を閉ざすようになる。
つつきだすと都合が悪くなるから、死者に手を合わせるだけにして、全部見なかったことにしようとする。
そんなくだりが、村田喜代子さんの『姉の島』にありました。

しかしイシグロ氏の作品の中では、戦争加担者は若者から糾弾されます。

若い頃から才能を開花させた小野は、その若い才能を、この国の危機のための役立てたいと考えます。
仲間たちと、自分にできることはないだろうか、国難を救う手助けができないだろうか、と盛り上がります。

その心意気自体は、非難されるべきものではないはずなんですが。
本文で詳細が語られていないものの、多分、プロパガンダ絵画を描いたであろうことは、想像に難くありません。
その功績を大日本帝国に認められ、宣伝部門でそれなりの地位を与えられたものと、推測できます。
かつての仲間の一人が、国民としての道を外れているのではないかと心配し、彼がまっとうな道に戻ってくれるよう上司に注意をお願いした……それが密告になるとは思わなかったぐらい、莫迦正直だったのですね。

小野の苦悩は、日本を破滅に導いた大日本帝国の片棒を自ら担ぎ、かつ仲間の一人が逮捕・拷問されるきっかけを作ってしまった、そのことに対する後ろめたさだと思います。
戦後、画家として引退したのも、師の教えに背いて、プロパガンダ絵画制作に走ったからですよね。

ただこの読み方だと「満州事変からの日中戦争と、真珠湾攻撃からの太平洋戦争をやらかした、敗戦国としての日本」のプロパガンダをやったことが、小野の傷となったことになってしまう。
本文でも、敗戦して民主主義国家になったとか、多くの国民を死なせた戦争というような語りはされていますが、戦勝国から敗戦国への非難を伺わせる語りはありません。

つまり、この作品から読めるのは、戦争の勝ち負けに関係なく、戦前戦中にプロパガンダポスターを描くなどの活動をしてしまうと、己の描いたポスターによって戦地に赴いて亡くなる若者が多数出るわけだから、遺族から見れば戦後は忌み嫌われる存在になるという普遍性ではないか、と思うわけです。

実際、欧米でも兵士を募る(と言うより心理的に志願させようとする)プロパガンダポスターが、戦時中に多く描かれていたようです。
『戦争とデザイン』という本に、いろいろ載っています。

要は、権力者はいつだって国民を支配したがるのだから、プロパガンダに利用されると、気づいたときにはみんなの嫌われ者になってるよ、という普遍的な警告と取れる、ということです。

以上が、私の誤読です。

陰影と他者性

あえてここで書くべきことでもないんですけど、最後にやっぱり。
カズオ・イシグロ氏と言えば、「曖昧な語りでつづられる陰影」と「作者の存在を感じさせない圧倒的な他者性」ですよね。

作者とは全く別人の主人公による語り(一人称)の文章で、記憶の曖昧な部分をひも解くように少しずつ語っていくことで、作品世界がじわりじわりと見えてくる構造(でも常に影がある)。
誰でも嫌なことは思い出したくないように、主人公も心の傷に触れないように遠巻きにして、初めは何でもない部分だけを平然と語るから、読者は影の部分があるらしいことだけを感じつつ、物語に引きずられていく。

エンタメ小説だと、この世界の謎はこれです! 黒幕はこの人でした! みたいに全部説明されて、読者はジェットコースターに乗ってるように作品世界を満喫できるけど、まあ世の中そんな小説ばかりじゃなくて。

薄明かりの中、手探りで迷路を進むんだけど、気が付いたら隠し扉の向こうにいて、隠し扉自体もたくさんあちこちにあって、ぐるぐる回りながら少しずつ景色を感じ取っていく。そんな小説でしょうか。(それが、陰影の技術ですね)

また、著者の意見を投影させない、他者としての主人公の確立というのが、やっぱりすごいなと思うわけで。
他者性というのは、結局読者に「彼(彼女)も人なり、我も人なり」を意識させてくれるので、せちがらい世の中には必要な認識力だと思うんですね。

カズオ・イシグロ氏の作品は、初期作品(『浮世の画家』は第2作)も面白いです。

おわりに

夏休みだし、もうすぐお盆休みだし、この夏の読書はどうしようかな~と考えている方も多いと思います。
若い方の中には、「なに読むのが正解?」と不安に思われてる方もいらっしゃるのではないかと。(うちの子が割とそれなので)

正解は、新作でも旧作、古典でも、あなたの目にとまった本が、あなたのためにある本です。

私も、今回読んだ『浮世の画家』は、数年前に買ったものの積読タワーを形成していた一冊で、でも何故か急に読みたくなって読んだのでした。
冒頭に書いたように、途中まで読むのが苦しかったんですが、峠を越すと加速がついて、結果的に「今読めてよかった本」となりました。

世の中には多読の方もいらっしゃるし、速読力のある方もいらっしゃいます。
そういう方がすごく多彩な読書記事を展開されてると、私も怖気づいてしまいます。

でも、読書って最終的には個人的な行為なので、他人がどう思おうと知ったこっちゃないというか、読んで自分が楽しけりゃそれでいいのだ。(バカボンパパ調でどうぞ。え? 知らない?)

私もこれからも「え? 今ごろそれ読むの?」と言われるような読書を、どんどんしていくつもりです。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

この記事が参加している募集

#読書感想文

189,568件

よろしければサポートをお願いします。いただきましたサポートは、私と二人の家族の活動費用にあてさせていただきます。